宝塚歌劇団といえば、いわずと知れた「女の園」である。劇団員は「タカラジェンヌ」と呼ばれる宝塚音楽学校を卒業した未婚女性で構成されていて、男性の役も女性が演じている。
主演の男役を「トップスター」、その相手役を「トップ娘役」と呼び、花・月・雪・星・宙の5つの組にそれぞれ一組ずついるのだ。トップスターから退団後も女優として活躍している大地真央・真矢みき・天海祐希、娘役では黒木瞳・檀れいなどを輩出している。
そんな宝塚歌劇団において、過去に男性も加えようという動きがあったというのだ。今回は、そんな宝塚歌劇団に関する雑学について調べてみたぞ!
【サブカル雑学】宝塚歌劇団には「男子部」があった
【雑学解説】かつて存在していた「男子部」とは?
宝塚歌劇団は1914年に「宝塚少女歌劇養成会」として活動が始まった。現在の阪神阪急東宝グループの創始者である小林一三(いちぞう)氏が集客のために始めたことがきっかけだ。
その後名称を「宝塚少女歌劇団」そして現在の「宝塚歌劇団」へと変え、今でも根強いファンをもち、夢のステージを繰り広げている。
そんな宝塚歌劇団の歴史の中で、戦後の1945年から9年間だけ存在していた「男子部」。一三氏が、女性だけで演じるのは限界がある、男性の役者を取り入れて、家族ぐるみで楽しめる国民劇を目指したいという思いから誕生したのだった。
1945年の男子部設立時には5人が入団、1952年までに25人の男性が所属し、女性団員と同じように厳しいレッスンに励んでいたという。ところが、1954年に男子部が解散するまでのあいだ、彼らの仕事は舞台裏でのコーラスや馬の足といった顔を出さない裏方のみであった。
その理由として、ファンたちが「宝塚歌劇団に絶対男性を入れるな」と騒いだことや、女性団員の中にも「ここは女の舞台」という意識が強かったこともあげられている。
また、一三氏が、1951年に上演された「虞美人(ぐびじん)」が3カ月のロングランという大ヒットを受けて、女性だけでもレベルの高い芝居を生み出すことができると確信したのだという。
そのため、男子部は1954年に解散となり、男子部のメンバーは宝塚大劇場の舞台に俳優として立つことなく終わってしまっていたのだ。ちなみに男子部は、1947年に女子団員1名とともに宝塚中劇場においてオペレッタ「さらば青春」を上演していた。
女性差別だと騒がれることは多くあれど、宝塚においては男性が肩身の狭い思いをしていたことがあったのに驚きだ! しかも、宝塚歌劇団に入るには「容姿端麗」という項目もあるため、男子部のメンバーも相当イケメンだったらしいが…。
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【追加雑学①】宝塚大劇場に顔出して立ったことのある男性がいた!
男子禁制の宝塚において、そのステージに立ったことのある有名人がいたのだ。歌手であり、関西では名司会者でも知られていたやしきたかじんである。
1977年、当時星組のトップスターだった鳳蘭(おおとりらん)が宝塚大劇場で初のリサイタルを行うことになり、その楽曲提供を依頼されたのが、やしきたかじんだったのだ。歌唱力や作曲センスを評価されて、そのまま舞台にも立つことになり、鳳蘭と共演したというわけだ。
厳密にいうと、宝塚歌劇の演目に出演したわけではないが、男性でありながら、あの宝塚大劇場に顔を出して立つことを許された貴重な人なのである。
【追加雑学②】男に間違えられたタカラジェンヌ
宝塚歌劇団には5つの組のほかに「専科」という組に属さないスペシャリスト集団が存在する。彼女たちは各組の公演に必要に応じて特別出演するのだ。その中に、トップスターを経験して退団せずに専科に残ったトップオブトップと呼ばれるスターがいる。
その名も、轟悠(とどろきゆう)。1985年に初舞台、1997年に雪組のトップスターに就任し、2002年に専科に異動するも、小劇場公演では数多くの主演を務める大スターである。同期には真琴つばさや愛華みれがいる。
その轟悠が1996年にミュージカル「エリザベート」で暗殺者ルキーニを演じたとき、本場ウィーンのミュージカルスタッフ達に、「女性しかいないはずなのに男がいるじゃないか」と驚かれたといわれている。
雑学まとめ
女性だけで構成された宝塚歌劇団には、大劇場の舞台に俳優として立たないまま解散を迎えたむくわれない男子部が存在していた…という雑学を紹介した。男子部のメンバーは解散後、自らのバレエ団を立ち上げた人や演劇の道を続けた人たちもいる。
そして、2007年に「宝塚BOYS」という男子部をモデルにした演劇作品が東宝芸能によって上演され、2008年・2010年・2013年・2018年と5度の再演をする好評ぶりで、本物の男子部メンバーも観劇し「自分たちの夢を叶えてくれた」と喜んだという。