思い切って大きな決断をくだすことを「清水(きよみず)の舞台から飛び降りる」という。この慣用句はたとえ話なのではない。実際に起こった本当の出来事だった。
江戸時代、祈願成就をするために、清水の舞台から本当に飛び降りた人がいたのだ。この記事では、京都の清水寺にまつわる雑学をご紹介していく。
【歴史雑学】本当に「清水の舞台から飛び降りた」人がいる
【雑学解説】清水の舞台から飛び降りたのは祈願成就に理由があった
778年に創建された清水寺は、京都市東山区にある北法相宗(ほっそうしゅう)の総本山である。1994年には世界遺産に登録されており、外国人観光客も多く訪れる寺院だ。清水寺の雰囲気を感じてもらうために、公式動画を貼っておく。
清水寺でとくに有名なのが、京都の街を一望できる高さ約13メートルもある境内の舞台である。江戸時代、この舞台から飛び降りると願いが叶うと信じられていた。そのため身を投げる人が絶えなかったという。
そのことが分かるのが、「清水寺成就院日記」である。この日記は、京都の奉行所へ報告するために綴られた寺の記録で、江戸時代から170年間にわたって書き記されてきた。
そのなかに清水寺から飛び降りた人のエピソードが記述されている。その記録によると、江戸時代中期から末期までに、清水の舞台から実際に飛び降りた人は、235件にのぼったという。
なんでも清水寺の舞台から飛び降りると、願いが叶うと信じられたことに理由があった。そのため、当時は実際に飛び降りる人が絶えなかったという。清水の舞台から飛び降りたのは、命を絶つためではなく、祈願成就に理由があったのだ。
なお日記には、飛び降りを防止する柵を京都奉行所に設置してほしいとの懇願をした、との記録も残されている。
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【追加雑学①】清水の舞台から初めて飛び降りたのは、鎌倉時代だった?
鎌倉時代の説話集に『宇治拾遺物語』がある。この物語のなかに、清水の舞台から実際に飛び降りた人の話が登場する。それが検非違使・忠明の話である。
検非違使(けびいし)とは、おもに京都の治安維持を担当した、現在でいうところの警察官・裁判官のような役割だと思っていただければいい。
その話によると、ある日、清水寺の周辺を警護していた忠明(ただあきら)は、清水の舞台で不審な男たちを見つけた。するとその男たちは、突然に刀を抜いて忠明に躍りかかった。
忠明は不意をつかれたが、清水寺の本堂の蔀(しとみ)と呼ばれる扉板を外し、脇に抱えたまま清水の舞台から飛び降りた。脇に挟んだ板のおかげか、無事に男たちから逃げ切ることができたという。
この忠明は、日本で初めて清水の舞台から飛び降りた人物ではないかといわれる。だが、その真偽は定かではない。江戸時代の記録から遡ること、はるか昔の鎌倉時代のエピソードだと考えると、あながち間違いではないかもしれない。
【追加雑学②】清水の舞台から飛び下りることが禁止されたの明治5年
江戸時代、祈願成就から飛び降りが絶えなかった清水寺。だが関係者は、ただ指をくわえて事態を見守っていただけではない。
京都を統括する奉行所へ、たびたび柵を設置する懇願をしたという。そして明治時代になって、ようやく策が打たれることになった。
明治5年、京都府が舞台からの飛び下りを禁止する条例を出したのだ。また、京都府が身投げを防止する取締りの強化を通達する旨を出したともされる。
一時、清水の舞台から飛び降りた人が絶えなかったが、この京都府の条例や対策により、その数は徐々に落ち着いていったといわれている。
雑学まとめ
清水寺にまつわる雑学をお伝えしてきた。あくまでも、清水寺の舞台から身を投げたのは、命を絶つためではなく、身を投げれば願いが叶うという祈願成就のためだった。
現在からすると、迷信と片付けることはたやすい。しかし舞台から飛び降りた人が多くいたことを考えると、当事者にとっては、やむにやまれぬ行動だったことが分かる。願いを叶えるためには、思いの強さとその度胸が試されると信じていたのかもしれない。