どんな大会でも、1位は金メダル・2位は銀メダル・3位は銅メダルだ。しかし過去のオリンピックで、銀と銅を半分ずつつなぎ合わせたメダルが存在する。その名も「友情のメダル」。
ベルリンオリンピックの棒高跳で、銀メダルと銅メダルを獲得した日本人選手2人が作った友情のメダルだが、そんな友情のメダルにまつわる雑学を紹介しよう。
本当に感動的な話なのか? …真相やいかに!?
【オリンピック雑学】銀と銅が半分ずつの「友情のメダル」とは?
【雑学解説】「日本人同士で争う必要はない」と長時間の戦いを終わらせた
ベルリンオリンピックの陸上・棒高跳の決勝。決勝の場に進んだのは、日本の西田修平選手・大江季雄(おおえすえお)選手とアメリカのメドウス選手・セフトン選手・グレーバー選手。
小雨が降り、肌寒さを感じる中、5時間以上にわたる闘いを繰り広げていた。
まずは4m25。ここでグレーバー選手が脱落。そしてバーが4m35に上げられると、クリアできたのはメドウス選手のみ。ここでメドウス選手の金メダルが確定した。
2位以降の順位を決めるために、ふたたびバーは4m25の高さに。なんと3人全員が失敗。
さらにバーの高さが4m15に下げられ、西田選手・大江選手が成功、セフトン選手が失敗。これで、西田・大江両選手の2位と3位が決まったのである。
ただ、悪天候と長時間の競技により、2人はすでに疲労困憊。
ここで西田選手から、「このまま延々と競技を続けて2位と3位をはっきりさせるより、同じ記録なら2人とも銀メダルだ。もうここで終わりにしないか」との提案が。こうして長い闘いを終わらせたのだという。
ただ、当時の大会ルールでは、同じ高さをクリアすれば試技の回数は関係なく同順位のはずだったのに、実際は、先に4m25をクリアした西田選手が2位という結果に。これには、試合を終わらせることを提案した西田選手もびっくりしたと語っている。
このときの決勝の様子がわかる動画を紹介しよう。戦前のオリンピックで、日本人2人がメダル争いに絡んで、見事銀メダルと銅メダルを獲得。
しかもこんな死闘を繰り広げて。ただただすごいことだと思う。
見てみると…砂!? 棒高跳といえば、今では落下地点にマットが敷かれているが、昔は砂だったってことか!?
これで足や腰を痛めたりしないのだろうか。選手生命に関わりそうな気もするが…。まぁ直接痛めることはないとしても、それでも負担は大きいだろうな。
表彰式では2位と3位を逆にした?
記録上では2位が西田選手、3位が大江選手となったのだが、翌日に行われた表彰式では、3位の大江選手が2位の位置に立ったのだ。
前回のロサンゼルスオリンピックで銀メダルを獲得していた西田選手が、「次の東京オリンピックでも頑張ってほしい」と後輩を思って激励したからだといわれている。
…という「友情」や「後輩への激励」といった美談が語られているが、実際のところ、真相はちょっぴり違うようで…。
表彰式で大江選手を2位の場所に立たせたのは後輩への激励を込めてという話が伝えられているが、あとになって西田選手はこう話したという。
「自分は前回のロサンゼルスオリンピックで銀メダルを獲っている。今回は銅で、次の東京オリンピックで金を獲ってコレクションする」
その中に「大江、これからも頑張れよ」といったような激励の言葉は…ない! しかも次で金を獲って金・銀・銅とコレクションするとか言ってるし! メディアが作り上げた美談だったのか…。
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「友情のメダル」の真相は、選手の家族の行動にあった
オリンピック後、銀メダルを持って帰った大江選手は、町をあげての祝福を受ける。と、そこへ、ベルリンから表彰状が届いたのだが、そこにはドイツ語で「トゥリッター」と書いてある。
実家が京都舞鶴の名門病院である大江選手、ドイツ語がわかる家族はその「トゥリッター」の文字を見てびっくり! そう、「トゥリッター」とはドイツ語で「3位」という意味なのだ。
真相を知った大江選手のお兄さんが、銀メダルを持って西田選手のもとに出向き、「この銀メダルは西田さんのものだ。あなたが持って帰ってきた銅メダルと交換してほしい」と懇願。
西田選手は「そのままでいい」とお兄さんを帰そうとしたがお兄さんは頑として譲らず。そしてついに西田選手のもとに銀メダルを置いていってしまったという。
困ったのは西田選手。どうしたもんかと大江選手に相談し、ルール上では同成績でどちらも2位なんだから、それならいっそのことメダルも半分ずつくっつけちゃおう! ということで、この不思議なメダルが誕生したのだ。
オリンピック後にお互いをねぎらい、「どちらも2位だからお互いのメダルを半分ずつにしよう」という感動の友情物語かと思っていたら、真相は「ちょっと強引なお兄さんに困っちゃったから」という理由だったなんて…。
「大江選手のお兄さんが医師でドイツ語が読めた」こと、「お兄さんがまっすぐな性格だった」こと、そして京都の舞鶴から西田選手のいる東京までやってきた行動力。これが友情のメダルが誕生した真相だ。
銀メダル持って帰ってきたけど実は3位でしたとわかっても、「向こうもそれでいいって言ってるならこのままでいいんじゃね?」ってなってもおかしくなさそうだが、お兄さんは許せなかったんだろうなぁ…。
メディアが「友情のメダル」として美談に仕立て上げた?
オリンピックにまつわる感動話として伝えられているが、実は「友情のメダル」として話題にのぼったのは、ベルリンオリンピックから28年も経ってからだという。
1964年の東京オリンピック期間中、海外出張を命じられた西田選手。そして出張を終えて帰国してみると、なんと世の中はあのメダルの話題で持ちきり。読売新聞の記者が「友情のメダル」として記事にしたのである。
西田選手本人も「出張から帰ってきてびっくりした。テレビで紹介されたり道徳の教科書に載ったりで、どうにも引っ込みがつかなくなった」といっているくらいだから、おそらく読売新聞の記者は取材とかしないで記事にしたんだろうなぁ。今だったら捏造とかいって超叩かれそうな話である。
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【追加雑学】「友情のメダル」はほかの競技でも存在した!
「友情のメダル」というと、西田・大江両選手の話が有名だが、実は他の競技にも「友情のメダル」が存在するという。
1976年の、第21回モントリオールオリンピックでのこと。この大会で日本の女子バレーは、失セット数ゼロという驚異的な強さで優勝を飾った。このときにセッターとしてチームを引っ張っていたのが松田紀子選手。
もともと松田選手はセッターの経験がなかったのだが、所属する日立のバレーボール部で同期の永木芳子選手からセッターの基本を教わることでグングン実力をあげていき、ついにオリンピックの代表メンバーに選ばれる。
そしてモントリオールオリンピックで金メダルを獲得すると、「今の自分があるのは永木選手がいてくれたおかげ」と金メダルを半分に割り、代表メンバーに選ばれなかった永木選手に渡したのだ。
このエピソードのほうがむしろ本当の「友情のメダル」のような…。なんでもっとクローズアップされないんだろう。
雑学まとめ
西田選手・大江選手の「友情のメダル」にまつわる雑学だが、美談といわれている話も実は真相はちょっと違うということがよくわかるものだった。
まぁオリンピックにまつわる話って、なんとなく美談とか感動とか、そっちのほうにメディアはもっていきたいんだろうけど…。
なんでもない話だったのが一転して実はものすごい感動的なお話でした! だったらいいが、その逆はちょっと残念だなぁ。