2019年4月24日、オリンピック女子マラソンの金・銀・銅メダリストを育てた名監督・小出義雄氏が、80年の生涯に終止符を打った。小出監督は約1ヶ月前の3月26日から入院しており、入院前にはすでに自身の死を受け入れていたという。
死期を悟った監督の口から出たのは「いい人生だったな」という言葉だ。その一言に、小出監督の人となりがすべて詰まっているといっても、過言ではないだろう。
日本の女子マラソンが世界に通用するレベルになったのは、監督の力あってこそのもの。その偉業を成し得たのは、小出監督が強さだけを求める監督ではなかったからだ。
有森裕子・高橋尚子…一体何が彼女らを世界レベルへ押し上げたのか。今回の雑学記事では、その秘密に迫っていくこととしよう。
【オリンピック雑学】小出義雄は金・銀・銅のメダリストを育てた
【雑学解説】「褒める指導」で、マラソンの「忍耐」のイメージを覆した小出義雄
小出監督の選手育成方法で、それまでのマラソン界の常識をくつがえしたのは「選手を褒めて育てる」という部分にあった。
マラソンといえば、誰しも「忍耐」の言葉を思い浮かべるだろう…小出監督は、42.195キロを「耐えて走ること」ではなく、「走ることを楽しむこと」を選手に教えたのだ。
一番わかりやすいのは、2000年のシドニーオリンピックで金メダルを獲得した高橋尚子選手だ。小出監督と高橋選手は非常に仲が良く、当時は「監督と選手の二人三脚」などと称された。
高橋を「Qちゃん」という愛称で呼ぶ姿は、それまでのマラソンのスパルタ的なイメージとは一線を画した。
学生時代に目立った実績は残していない高橋に、小出監督は「お前は世界一になるよ」といい続けたという。これは選手のやる気を出させるためだとか、そんなものではなく、監督は本気で高橋が世界一になれる選手だと思っていたのだろう。
その言葉通り、高橋は見事金メダルを獲ってみせた。無名選手相手に、他に誰がそんなことを思い描いただろう。その資質を見抜いたのは、小出監督が高橋にこれでもかと寄り添ったからだ。
「選手を誰よりもよく理解し、愛情を注ぐ」…それが小出監督流なのだ。
告別式では、高橋選手が弔事を読んだ。監督がどのように選手と向き合って来たか、動画での彼女の言葉からも感じることができる。
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走ることが好きではなかった有森裕子も、小出義雄の愛情が導いた
高橋尚子選手は小出監督の育て方もあって、走ることが大好きだった。一方92年バルセロナ大会で銀、96年アトランタ大会で銅メダルを獲得した有森裕子選手は、高橋選手とは大きくタイプが違う。
彼女の著書『やめたくなったら、こう考える』の冒頭部分は、いきなり「私は好きだから走っていたわけではありません」という言葉から始まる。「好きこそものの上手なれ」という言葉が通説になっていることから、この冒頭部分には衝撃を覚える。
有森は好きではないのに世界レベルまで上り詰めたというのだ。
ここで思い浮かぶのが「え? 小出監督は選手に走ることの楽しさを教える監督では?」という疑問だ。有森の例がその教えを否定しているかといえば、そうではない。
小出監督の持論は「スポーツは楽しみながら、自分で限界に挑むもの」。そして有森がマラソンを走るようになったきっかけは「誰にも負けないものが欲しかったから」だ。
そういった意味で有森は、走ることそのものというより、自分の限界に挑むことに楽しさを見出していたといえる。
小出監督はこのときも、有森に寄り添った育成の仕方をしていた。無名の状態で弟子入りしてきた彼女は、走るのが好きでもなければ、いいタイムが出せるわけでもない。ただ「誰にも負けないものが欲しい」という気持ちは人一倍強かった。
そんな彼女に監督は「タイムはいいから、一日かけてでもメニューをこなせ」と指導したのだ。速くは走れなくても、何が何でもやり遂げる根性はもっている。そんな有森の性質をよく捉えた言葉だといえる。
「選手をよく理解し、愛情を注ぐ」…その姿勢は有森裕子のときも、高橋尚子のときも変わりはないのだ。
彼女に対して小出監督がどのような指導をしてきたのか、動画の中でも語られている。限界に挑戦することでが自信に繋がる…途中で投げ出したくなったときに、自分を鼓舞してくれそうな言葉だ。
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【追加雑学①】シドニーオリンピックでは、お酒を飲み過ぎて選手のゴールを出迎えられず?
小出監督は大の酒好きでもよく知られている。2001年にはコンビニチェーンのサンクスから「小出監督のおつまみセット」なる商品が発売されたぐらいだ。
ただ酒好きというだけではなく、酒に酔っぱらってしまってしばしばやらかしてしまう部分があることが、当時世間で話題になった理由だ。
シドニーオリンピックの際は、酔っぱらってしまったせいで高橋尚子のゴールに立ち会えないというハプニングも起こった。監督は20キロ地点で高橋の走りを見て「勝てる」と確信。その安心感から、大量にお酒を飲んでしまったのだ。
いい意味に捉えれば、世界一を競う舞台で堂々と酔っぱらえるほど、高橋を信用していたということだろう。また小出監督は、監督のゴール地点での仕事は「選手が勝ったときではなく、負けたときにある」としている。
結果が出せたなら、そこでもう監督の仕事は十分。高橋も小出監督の性格は熟知していたので、たとえゴールで出迎えてくれなくても、いい笑い話である。
【追加雑学②】小出義雄は死に際まで妻や娘たちのことを想い続けていた
小出監督の愛情深い人となりは、家族との関係からも感じることができる。監督が亡くなったのは4月24日、その二日前の22日は、妻・啓子さんの誕生日だった。
当日は会話もできない状態だったというが、監督は前もって3人の娘に向かって「誕生日には、俺の代わりにデパートへ行って、アクセサリーを買ってあげて欲しい」と頼んでいたという。そして娘たちにも「自分たちも好きなものを買っていいよ」と伝えた。
監督が啓子さんの誕生日を迎えてから亡くなったのは、「せめて誕生日までは」という意志があったからだろう。
「自分が死んでも悲しむのではなく、酒でも飲みながら楽しくやってほしい」ともいっていたという。監督は大の酒好きだが、ただ酒が好きというよりも、和気あいあいと飲みかわすこと…周りの楽しむ姿が好きだったのではないだろうか。
雑学まとめ
今回の雑学記事では、小出義雄監督について取り上げた。高橋尚子・有森裕子…二人のオリンピックメダリストを育てた小出義雄監督は、愛情深く、選手に寄り添う指導者だった。多くの選手に寄り添ってきた人生を、監督は「いい人生だったな」と振り返っていたのだろう。
スポーツで結果を出すためには、ときには厳しいトレーニングも必要だ。しかし、そもそもなんのために結果を出すのか…選手たちは自分のために挑戦し、結果を出すのだ。
選手がどんな気持ちで挑戦しているのかを理解しているか否かで、指導の意味はまったく変わってくるだろう。
高橋選手はメダルを獲ったことで、さらに走ることが好きになっただろう。有森選手は「自分だから成し得た」という自信を手に入れた。小出監督は勝つことよりも、選手たちがそれらの気持ちを手に入れることを望んでいたのではないだろうか。
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