神様のことを1人…2人…と数えているアナタ! それは直したほうがいいかもしれない。なぜなら、神様を数えるときに使う単位がちゃんとあるからだ。
みなさんだって、人を数えるときに1匹・2匹とは言わないだろう。もし自分がこんな風に数えられたらかなり気分が悪いのではないか?
ちょっと極端な話になってしまったが、神様の立場から勝手に想像すると「人」で数えられることは、案外こういう風に思っているかもしれないのだ(神様もそこまで高飛車ではないと信じたいが)。
今回の雑学は、神様の本来の数え方や由来を知ってもらって、読者の知識を深めるチャンスづくりになればと思っている。なんら難しい話ではないので気軽に読んでほしい。
【歴史雑学】日本の神様の数え方は「柱」
【雑学解説】日本神道が元になった
もともと「柱」というのは、日本神道の考え方をもとにした数の単位だ! 読み方としては「はしら」となり、一柱(ひとはしら・ばしら)や二柱(ふたはしら・ばしら)といった具合になる。
ちなみに神道とは、古来から伝わる日本独自の宗教のこと。神道では、我々の目には見えない神様たちは自然そのものに宿る、という風に考えられていた。
つまり海・山・川・木々なども、神々が宿るものの一部だということ。今のようにしっかりとした造りの神殿や拝殿がなかった大昔には、巨大な樹木を神が宿る「御神体」に見立て、人々は祈りを捧げていたそうだ。
実は、もともと木には1本・2本という数え方のほかに「柱」が使われていた。これが名残となって、神様の数え方にも「柱」を用いた。
以上が神様の数え方を「柱」とした由来である。
また、国の成り立ちを書いた古事記や日本書紀にも「〇柱の神」といった記載があることから、柱の単位が使われはじめたのもかなり大昔ということがわかる。
このように「柱」は、古の時代から伝わってきた由緒正しい数え方なのだ。
【追加雑学①】少し怖い「柱」の使われ方
柱が使われる言葉に「人柱」という言葉がある。これも(ひとばしら)と読むのだが、前述の「一柱」とは、まるで意味がちがう。
「人柱」とは、かつて、巨大な工事の際に生きた人間を土や水中に埋め、災害などへの安全祈願を行ったという、なんとも残酷な風習である。城壁を作るときに、石壁に人柱を使ったという伝説もあるのだ。
とりわけ日本の昔話の中でも、日照りや洪水などの天変地異を鎮めるために人柱を使う表現が見られる。また、海外でも「いけにえ」のように形を変えて行われていた。
つまりこちらの「柱」は、神聖な意味合いとは真逆で、現代人の感覚としてはとてもイヤな意味の言葉だということ。何かしら、霊的な加護を期待して行う人柱の風習だが、使われるのは生きた人間だ。人柱になる本人が望んだ場合以外は、言葉を変えた「処刑」とほぼ変わらないように思う。
その人間が死んだあと、もし世や人を恨んで祟りなどを起こしてしまったら、それこそ本末転倒じゃないのかと思うのだが…。イメージするとかなりゾッとする話だ。
ただし人柱は、不慮の事故などで人が亡くなったケースにおいて、その故人を「人柱になった」と言って、哀悼の意味で使われることもあったそうだ。「柱」を使っているが、どちらにしてもあまりいいニュアンスの言葉ではない。
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【追加雑学②】ほかの数え方もある
神様のことを柱のほかに「座」と数えることもあるぞ! 読み方はそのまま「ざ」だ。
これは、特定の場所で祀られている山の神様や土地の神様に対して使われる単位だ。このような神様たちは、土地を越えずその場所に鎮座(ちんざ)する神である。
柱との違いをおおまかに記述すると「天照大神(アマテラスオオミカミ)」などの場合、単位は基本的に「柱」を用いる。
この違いには諸説あるが、上記の天照大神のように神話にでてくる神々や、御柱を祀るようなメインの神がいる場合は「柱」と数え、それ以外の神々や、上述したようにその土地のみで祀られている神を「座」と数えるのだとか。
こうした特殊な数え方もあるということだ。「柱」とセットで覚えておくとよいだろう。
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雑学まとめ
今回の雑学では、神様の数え方について紹介してきた。
ここまで説明しておいてなんだが、日常の会話シーンで神様を数えるときに、「柱」を使うことが変に恥ずかしかったり、周りから浮いてしまいそうだとか考えていないだろうか?
たしかに、全ての日本人が神様のことをちゃんと「一柱・二柱」と数えているわけでもない。いざ口に出すとしよう。すると相手から「キミ神社の人?」とからかわれたり、誤解されてしまう可能性がないとも言い切れない。
しかしこれで恥をかくのは、むしろ知らない人のほうだ。柱や座などの単位の由来は、神話の時代から伝わってきた大切な日本文化の1つでもあると筆者は考えている。
というわけで、人前で神様を数えるとき「柱」と言うのをためらうことはない。むしろ本来のかたちを知っている自分を誇るべきなのだ。