歴史上の偉人のなかには、その名声とは裏腹にあっけない最期を遂げた者も少なくない。古代ギリシャの数学者にして物理学者でもある、アルキメデスもそのひとりである。
彼はローマ兵のふるまいに腹を立てて文句を言ったところ、あえなく殺されたとの逸話が残っているのだ。この記事では、アルキメデスが殺害された際の真相に迫っていく。
【歴史雑学】"テコの原理"で有名なアルキメデスの残念すぎる最期とは…?
【雑学解説】アルキメデスは地面に描いた図形を踏まれて激怒した
アルキメデスは、古代ギリシャの数学者・物理学者である。アルキメデスといえば自らの名を冠した「アルキメデスの原理」や「てこの原理」を発見したことで知られている。だが、後世に名を遺すアルキメデスの最期は、実にあっけないものだった。
紀元前3世紀頃、共和制国家・古代ローマと現在のチュニジアにあるチュニス湖東岸の古代都市・カルタゴのあいだで、戦争が勃発した。これは地中海の覇権を争って、計3度にわたって繰り広げられた。これを「ポエニ戦争」と呼ぶ。
シラクサとは、イタリア・シチリア島南東部にあった、ギリシャ植民地の中でも最も繁栄していたとされる古代都市である。この都市は、かつてローマと同盟を結んでいたが、第2次ポエニ戦争の際に、敵国のカルタゴに寝返っていた。
シラクサは侵攻してくるローマ軍に、3年間にわたり抵抗を試みた。その際に使用した兵器のなかには、アルキメデスが発明したとされる大形の投石器が使われていたという。
だが、必死の抵抗もむなしくローマ軍に周囲を包囲され、シラクサはあえなく陥落してしまう。アルキメデスはその際に兵士に殺害されたといわれている。
アルキメデスは地面に図形を描き、考えごとをしていたところ、ローマ兵が突然乱入してきた。それに怒ったアルキメデスは、「図をこわすな!」「図形に近寄らないでくれ」と腹を立てたことがきっかけで、兵士に殺害された。
なお、アルキメデスの名は敵国のローマにも知れ渡っており、将軍の指示で生け捕りにするように命じられていたという。その命に兵士が背いたことから、将軍が激怒したとの逸話も残っている。
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【追加雑学】名探偵・アルキメデスが不正を見破った「黄金の王冠」の話
アルキメデスの生涯のなかで、特に知られているのが「アルキメデスの原理」を思いついた際のエピソードである。あるとき、シラクサの王は、職人に金塊を渡して、神殿に奉納するための王冠を作らせることにした。
しかし王はできあがった王冠を見て、ある疑問を抱いた。職人が金塊を懐にしまい、王冠には混ぜ物を使ったのではないかと疑ったのである。困り果てた王は、アルキメデスに相談を持ち掛けた。まるで「一休さん」や「探偵小説」の話ではないか!
アルキメデスはこの難題を家に持ち帰り、しばし考えてみることした。数日後、彼は入浴中にあることに気付く。湯を張った浴槽に入ると水かさが増し、浴槽の縁からお湯があふれ出すことを見つけたのだ。そして閃いた。
王冠を水槽に沈めると、その体積分だけ水面が上昇することから、王冠の体積と等しい物体(金塊)を水中に沈め、その体積を比較すれば、王の要求に応えられるのではないか、と。
これに気づいたアルキメデスは、素っ裸で表に飛び出し「ヘウレーカ、ヘウレーカ!(わかった! わかったぞ!)」と叫びながら通りを駆けめぐったという。
そして、彼は以下のような実験をして職人の不正を見破った。天秤棒に、王冠とそれと同じ重さの金塊を吊るして水中に沈める。同じ比重ならば、陸でも水中でも釣り合うはずである。
だが、天秤は釣り合わなかった。それぞれの比重が違うことを発見したのだ。こうして王冠は混ぜ物で作られていることが実証されたのである。以下の動画に、詳しい説明がなされている。あわせて参考にしていただきたい。
その後、職人は死刑に処せられたという。職人はさぞかし後悔しただろう。だました相手が悪かった。名探偵アルキメデスの活躍によって、こうして難問は解決されたのである。
雑学まとめ
以上、数学者アルキメデスが殺害された際の雑学と、名探偵アルキメデスの謎を解いた雑学についてご紹介した。アルキメデスのエピソードを見てくると、なんとも天才肌の偉人だと感じないだろうか。
兵士が乱入しても研究に没頭する。体積を発見した際も人目をはばからず小躍りする。アルキメデスのように、他の人には見られない突き抜けた性格の持ち主こそ、偉人といわれるのかもしれない。