筆者は渡辺謙が大好きだ。今でこそハリウッド俳優のイメージが定着しているが、個人的には、渡辺謙の真骨頂はやはり時代劇だと思っている。
なかでも『独眼竜政宗』! 大河ドラマ歴代最高の平均視聴率39.7%を誇る、今なおファンのあいだで絶大な人気を誇る傑作だ!
この作品で一躍、人気武将の仲間入りを果たした伊達政宗だが、独眼竜の異名や三日月を乗せた兜など、いかにも厨二なイメージが先行しがちで、具体的になにがすごいのかは知られていない気がする…。実にもったいない!
そこで今回は、僭越ながら『独眼竜政宗』ファンの筆者が、伊達政宗の真のすごさについての雑学をお伝えしていくぞ!
【歴史雑学】伊達政宗はなにがすごかった?
【雑学解説】コミュ力のかたまり! 政宗は世渡り上手
政宗の生きた時代は、信長から秀吉へ、秀吉から家康へと天下人が移り変わった動乱の時代。血気盛んな政宗は幾度となく謀反の疑いをかけられ、絶体絶命のピンチに陥ったことは数知れず…。
そのたび機転をきかせて窮地を潜り抜けてきたエピソード、そして政宗の壮大なコミュ力がうかがえるエピソードをご紹介しよう!
死に装束でド派手な謝罪
まずは、秀吉の天下統一が目前となった天正18年(1590年)の小田原攻めのエピソードから!
関東の覇者・北条一族と因縁の対決に乗り出した秀吉から、再三にわたり急かされていた挙兵の要請をのらりくらりとかわしていた政宗。
同盟関係にある北条か、勢いのある秀吉か…どちらにつくべきか迷っていたわけだが、「やっぱこれからは秀吉だな!」と決意したのはなんと最初の要請から半年後のこと。
しかし、遅刻常習犯かつ暴れん坊で有名な政宗、普通に謝ってもまず無理である。そこで、彼が選んだ策はなんと死に装束をまとっての謝罪! 「お前ふざけてんのか?」と思われそうだが、同じく派手好きな秀吉のウケは非常によく、めでたくお咎めなし!
しらを切り通した花押事件
こうして秀吉の配下におさまった政宗だが、まだまだ順風満帆とはいかない。奥羽各地で一揆が頻発し、そのうち政宗の領内で起きた葛西・大崎一揆の扇動を疑われてしまったのだ!
先述の死に装束パフォーマンスがウケたことに味をしめた政宗は、さらに金箔張りのドでかい十字架をオプションにつけて弁明に訪れた。証拠とされる書状を突き付けられるのだが、「いや、それ俺のじゃないから。俺いつも花押に針で穴開けてるから」としらを切り通す。
花押(かおう)とは、武将のサインのこと。政宗は当時珍しいほどの筆まめで、自筆の書状も3,000通あまりが現存しているのだが、どれひとつとして穴は確認されていない。
もちろん秀吉があっさり信用したとは思えないのだが、小田原攻めのときと同じく、度胸の良さを買われて見逃してもらえたのかもしれない。
なんと海外進出まで目論んだ
また、政宗はこの時代に異文化交流も嗜んでいたコミュ力のかたまりでもある!
慶長18年(1613年)、家臣の支倉常長(はせくらつねなが)ら慶長遣欧使節をスペインやローマへ派遣したのだ! 政宗の血気盛んな性格が災いしてか、スペインと軍事同盟を結んで倒幕を狙った…と未だに囁かれているが、あくまでも目的は通商だったらしい。
後に幕府がキリスト教を禁止し鎖国政策をとったこともあり、この派遣は決して成功に終わったとは言い難い。しかし、「日本人がヨーロッパに行って外交を行った」初の試みなのである!
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【追加雑学】イメージ通り? 政宗の暴れん坊エピソード
さて、ここまでは頭脳派な政宗の一面をご紹介したが、イメージ通りのやんちゃなエピソードもあるぞ!
文化財破壊
政宗は「伊達男」の語源にもなった通り、オシャレな上にわびさびを解する風流人なのだが、その割に高価なものを大事にしないところがあった。
たとえば、中国の高名な書家・王義之(おうぎし)の書をまっ二つ! 高麗の天目茶碗(てんもくちゃわん)を叩き割り、当代随一の茶人である千利休の茶杓・花入を破壊…と、いずれも国宝・文化財レベルの名物をことごとく破壊している! やんちゃが過ぎるどころか犯罪だぞ!
味方を射撃
こちらは慶長20年(1615年)、大坂夏の陣での仰天エピソード!
政宗は、手前に陣取っていた神保相茂(じんぼうすけしげ)の軍隊に向けて鉄砲隊の一斉射撃を命令! なんと味方を全滅させたのだ!
政宗の言い分によれば「神保隊が総崩れになったから、巻き込まれると迷惑なのでやった」とのこと…。一応お咎めはなかったが、敵に回すのはもちろん、味方にいるのも怖~い男、それが政宗である!
雑学まとめ
さて、伊達政宗にまつわる雑学をご紹介してきたが、彼の意外なすごさがおわかりいただけただろうか?
いかにも戦でのし上がってきたイメージが強い政宗だが、実は知略(屁理屈ともいう)を駆使して領地を守りきり、その結果、内政に力を注ぐことができたのだ。政宗が治める仙台藩は62万石だが、実際は100万石近かったというから驚きだ!
群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の戦国時代で本当に役立つものは、腕っぷしの強さではなく、巧みな処世術だったのかもしれない…。
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