現代の日本は、男女平等の社会になってきている。女性が社会で活躍する機会が増え、女性自身でやりたいことができる世の中になってきた。
世界的なスポーツのお祭りであるオリンピックにも、その影響はしっかりとあらわれている。「女性のオリンピックへの参加」、それが当たり前になってきていることに、筆者は同じ女性として幸せを感じる。
しかし、振り返ってみるとこうはいかない時代があった。
…ある日本人女性がいる。その人は、それまで「女性はオリンピックに出るものではない」という社会の風潮を自分自身で参加することで変えようとしてきた。
この人の人生を知るうちに筆者は感動さえ覚えたので、今回の雑学記事でご紹介しよう。ぜひ多くの人に知っていてもらいたい。
【オリンピック雑学】日本人女性初のメダリスト・人見絹枝の栄光と夭折の人生とは?
【雑学解説】日本人女性のメダル第一号、人見絹枝の努力し続けた人生
その女性の名前は、人見絹枝(ひとみ きぬえ)という。なにをかくそう、オリンピックにおいての日本人女性のメダル獲得第一号だった人物だ!
人見絹枝は1907年に岡山県で生まれた。もともと運動が得意であった彼女は、中学生のときに陸上の走り幅跳びで当時の日本記録を出したことをきっかけに陸上競技をはじめることになる。
1926年(大正15年)には、国際女子陸上競技大会の陸上女子100mで世界記録を樹立する。
この大会の個人総合の部でも総合優勝を果たした彼女は、なんと1928年のアムステルダムオリンピックに日本人女性としてはただひとりで参加することになったのだ…!
オリンピックのような公式記録ではないものの、当時の世界記録をもっていた人見絹枝選手は、まわりから相当の期待を掛けられていた。しかし、アムステルダム大会の陸上女子100mでは残念ながら準決勝で負けてしまう。
その日の晩、負けた悔しさから眠れず、涙でまくらを濡らして過ごした彼女は、なんとそれまで走ったことのない「陸上女子800m」に出場することを決意! なんという負けず嫌いな…。
はじめて挑戦する陸上女子800m。走り慣れた100mよりも8倍長いこのレースで、根性で走り抜いた人見絹枝はなんと2位にかがやき、銀メダルを手にした!!! やったー!!
アムステルダム大会まで、女性は参加できなかった
ところでこの当時は、「激しいスポーツが女性には向かない」「女性が肌をさらしてスポーツをするものではない」といわれ女性のオリンピック参加が認められていなかった。
アムステルダム大会ではじめて女性の参加が認められたものの、ほかに出場する選手もいなかったため、人見絹枝は女性ひとりの参加者となってしまったのだ。
実力ももちろんだが、女性ひとりでも参加しようと思うほどの強い心がないと、オリンピックなんて出られないんだな…。
おすすめ記事
-
参加ダメ!観戦もダメ!古代オリンピックは女性差別がひどかった
続きを見る
スポンサーリンク
【追加雑学①】帰国後の人見絹枝は新聞社のジャーナリストの道へ
銀メダルを獲得し帰国した彼女は、新聞社でジャーナリストの道へと進むことにした。このとき19歳。さらに日本女子スポーツ連盟においても中心的な役割を担い、後輩の育成や日本女性へスポーツを広めるため日本中をまわった。
彼女の次なる目標は、「女子選手団」として再びオリンピックに出場することであった。新聞社での仕事をしながら次のオリンピックへ向けての練習、そして女性達へスポーツすることの楽しさを教えるための日本行脚。
そこには多くの苦労があったことだろう…。こう、と決めたら努力を惜しむことはしない性格、そして責任感の強い女性だったのだろうな、と筆者は感じた。
【追加雑学②】人見絹枝はオリンピック出場後、24歳という若さで亡くなってしまう
新聞社での仕事をしながら後輩の育成、さらに日本全国をまわり女性達へのスポーツの普及活動を続けていた人見絹枝は、1931年のある日、ついに無理がたたって倒れてしまう。
「胸膜炎(きょうまくえん)」との医師の診断を受けるが、その後肺炎を発症し亡くなってしまう…。
1931年8月2日のことだった。偶然にもこの日は、アムステルダムオリンピックで銀メダルを獲得した日からちょうど3年という日であった。
おすすめ記事
-
人見絹枝と有森裕子の"8月2日"の因果。女子メダリストの奮闘
続きを見る
雑学まとめ
わたしたちが今、テレビで4年に一度楽しんでいるオリンピック。女性選手が活躍できる裏には人見絹枝さんのはじめの一歩があった。チェコのプラハには、彼女の功績をたたえて記念碑が建っているという。
24歳という若さで亡くなってしまったのは本当に惜しい…。これからの未来の日本人女性たちにも、彼女の努力があったことをこの雑学を通して知っていてもらいたい。