「起きて半畳寝て一畳、天下取っても二合半」ということわざがある。
これは人間の生き方を諭したことわざで、「どんなに広い家に住んでいても、一人が立つにしても半畳、寝るにしても一畳あれば十分に足りる、また天下を取っても人一人が食べられる米はせいぜい二合半がいいとこである」という、贅沢への戒めが込められたことわざだ。
なるほど、たしかに人の立つスペースは半畳あれば足りるし、一畳あれば横になることもできるだろう。しかし、この「一畳」という単位、地域によって違いがあることをご存知だろうか。
「一畳」とはまさに畳一枚分の広さの単位なのだが、全国で使用されているのに違うとは何事か。地域によっては寝て一畳とならないどころか、引っ越しの際の間取り図を見誤ると痛い目をみることもあるかもしれない。そこで今回の雑学では、畳の大きさの基準にスポットを当ててみた!
【生活雑学】畳の大きさの基準は?
【雑学解説】地域によって違う畳の大きさの基準
なぜ、地域によって畳の大きさに違いが出てしまったのか?
その謎は関西地方と関東地方での家作りの考え方の違いからくるといわれている。たとえば、家を作るとき、関西地方では畳の大きさを基準に家の設計をしていくが、関東地方では家の大きさを先に決め、あとから畳を作っていくという。
この作り方の違いにより、畳は京間(本間)・六一間・中京間(三六間)・江戸間(五八間)・団地間(五六間)と5つのサイズに分裂してしまった。各々のサイズは以下の通りで、同じ6畳間でもそれぞれの広さは全然違うのだ。
間 | サイズ | 頒布 |
京間(本間) | 191cm×95.5cm | 京都をはじめとする関西地方 |
六一間 | 185cm×92.5cm | 岡山・広島・山口など山陰地方 |
中京間(三六間) | 182cm×91cm | 岐阜・名古屋など、沖縄一部や北陸地方と広範 |
江戸間(五八間) | 176cm×88cm | 東京をはじめとする関東地方 |
団地間(五六間) | 170cm×85cm | アパート・マンションなど集合住宅用 |
こうしてみると、京都が栄えた平安時代と東京が栄えた江戸時代の時代背景も絡んでいるようにも見える。
平安時代では大広間を基準とする寝殿造りの家屋が中心で部屋に割く面積も広くなっていた。しかし、江戸時代になってからは都市が発展していき人口が増加した、その人数を収めるために集合住宅の長屋などが登場した。
こうして狭いスペースにたくさんの部屋を作った結果、狭い部屋に合わせた畳サイズとなっていった。
一方、団地間の歴史はそこまで古くなく、戦後の住宅不足から増えだしたアパートやマンションなどの集合住宅用に作られたため、さらに一回り小さいサイズとなっている。
引っ越しの際の契約書には間取り図のほかにも、間の記載が載っていることもあるので確認したほうがいいだろう。もちろん、洋室の場合でも間の違いは同様に適用されているので、全室洋室でも気は抜けない。
ちなみに、広さを表す単位で「坪」というものがあり、これは畳を二枚並べた正方形の面積を指すが、このときの畳は中京間の畳サイズを基準に換算されており、一辺6尺(198㎝)の正方形のことを表している。
スポンサーリンク
【追加雑学】畳の起源
世界には類を見ない日本固有の文化として生まれた畳は、英語でもTATAMI(タタミ)と表記され、まさに日本が誇る文化の一つである。
畳の起源は茣蓙(ござ)から始まる。名前の由来は茣蓙を「たたんで」しまっていたことから、「たたむ」が「たたみ」となり定着していった。
平安時代では茣蓙に厚みをもたせたものが生まれ、徐々に現在の形に近づくが、当時は階級の高い人物のみが使用できるクッションのような存在で、階級によって縁の色分けをした。まだ現在のような一般住居に用いられるようなものではなかった。
江戸時代に入ると、茶道の発展のおかげで、一般住居にも建築材として広く使用されるようになる。この頃になると畳文化も広く認められ、国の役職として「畳奉行」という役職も存在した。
このように時代とともに広まってきた畳であるが、現代では西洋化が進み、畳の部屋をみることも少なくなった。それこそ、洋室の一部にクッション替わりに畳を置くというような、平安時代のような使われ方も増え、改めて時代が回帰していることを実感する今日この頃である。
雑学まとめ
今回は畳の大きさや起源など、畳についての雑学をご紹介してきた。地域別の畳があることも驚きだが、畳が発祥してからだいぶ経つというのに、その大きさについて一度も統一されることなく、今に至っていることに驚きだ。このあたりで一旦統一していただけると、部屋探しも助かる。
近年では、主な寝具が布団からベッドへと変わってきていることで、洋室ばかりが目立つが、ふとしたときに井草の匂いが恋しくなるのは、やはり日本固有の文化であることをどこかで感じているからなのかもしれない。