今回の雑学テーマは、金栗四三(かなくりしそう)について。2019年の大河ドラマ「いだてん」の主人公にも抜擢されたマラソンランナーだ。
「マラソンの父」とも称される四三は自ら選手として走るだけでなく、日本各地で大会を開いては後継を育て、当時はただの「運動」「体操」でしかなかった陸上競技を「スポーツ」として確立させたのだ。
日本のマラソンをはじめとした陸上競技、ひいてはスポーツの発展に大きく貢献をしたスポーツ界の偉人である。そんな金栗四三、実は世界最長の記録をもつマラソンランナーでもあるのだ。
【オリンピック雑学】金栗四三は約55年かけてゴールしたマラソン選手
【雑学解説】金栗四三は55年間行方不明だった!?
幼い頃から走ることが大好きだった四三は、高等師範学校在学中にストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に参加する。ここで当時の世界記録を30分近くに破る2時間32分45秒という記録を叩き出し、翌1912年、鳴り物入りでストックホルムに向かった。
ところが1912年のストックホルムオリンピックのマラソン当日は、40℃という記録的な暑さ。レースの参加者68名の半数近くが棄権し、中には死亡者も出るという過酷な状況だった。
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初めてのオリンピック、初めての海外渡航であった四三。船と鉄道を乗り継いだ20日にも及ぶ移動の疲れや、白夜による睡眠不足、環境面や食事面でのストレスも重なり、コンディションは最悪。さらに当日にはスタジアムまでの送迎が来ず、走って向かう羽目に合うというアクシデント…。
数々の不運に見舞われ、おまけに記録的暑さだ。まともに走れる方がすごい。多くの選手と同じように四三もレース途中、日射病で倒れてしまう…。
次に四三が目覚めたのは、見知らぬ農家の家だった。レース途中で倒れた四三は大会スタッフではなく近所の農家に発見され、介抱されていたのだ。目覚めた頃にはもうすでにレースは終了…どころか終わって1日経っていた。
意気揚々と初めてのオリンピックに挑んだだけに、四三は失意のなか日本に帰ってゆく。ちなみにこのとき彼を見つけ介抱したペトレ家とは、帰国後も文通によって交流を続けていたという。
ところが、このとき大会の棄権者に「金栗四三」の名前はなかったのだ。倒れた四三はスタッフに見つけられなかったため、棄権者リストに載ることなく行方不明扱いになっていたのである。
日本に帰った四三はそんなことを知る由もない。彼の知らないうちに「消えた日本人・カナクリシソウ」の物語は、遠いスウェーデンで都市伝説のように語り継がれていた。
そして年月が過ぎ、ストックホルム大会から55年後の1967年。スウェーデンではストックホルムオリンピック55周年を記念した式典に向けて準備をしていた。
当時の記録を整理していたオリンピック委員会は「競技中に失踪し行方不明」となっていた四三の記録を発見。記念式典に四三を招きゴールを用意することを決めたのだ。
招待された四三は、競技場をゆっくりと走ってゴールテープを切った。
「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム54年8ヶ月6日5時間32分20秒3。これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」アナウンスが場内に流れた。
この大記録はこの先も破られることがないだろうといわれている。
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【追加雑学①】金栗四三は日本初のオリンピック選手
金栗四三が初めて参加したストックホルムオリンピック。1912年ってずいぶん遠い昔だな…と思ったらそれもそのはず。なんとこの大会が日本人の記念すべき初オリンピック参加だったのだ。
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それまで日本はおろか、アジアでオリンピックに出場した国はなかった。アジア初の国際オリンピック委員会メンバー・嘉納治五郎の尽力により、1912年のストックホルム大会で初めての東洋の国、日本が参加したのである。
日本初めてのオリンピックは、金栗四三と三島弥彦の2人が陸上競技で出場。
その結果は、四三は前述のとおり、マラソン中に行方不明となり、10,000メートルを棄権。弥彦は100メートル・200メートル・400メートルに出場し、100メートルは自己新記録を出しながらも1次予選敗退、200メートルも1次予選敗退、400メートルは準決勝棄権と思わしいものではなかった。
弥彦は四三に「金栗君。日本人にはやはり短距離は無理なようだ」とこぼしたという。
日本初のオリンピック参加は、選手にとっても悔しい結果に終わったようだ…。
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【追加雑学②】え!アレも!?金栗四三が広めたもの
金栗四三は選手としてではなく、指導者としても一流のランナーだった。四三が広げたもの、実はたくさんあるので紹介したい。
運動靴
四三が走っていた当時、日本では運動靴がなく足袋を履いて走っていた。だが、マラソンのような長距離には足袋では耐久力が足りない。
そんななかでオリンピックに参加した四三は、他の国のランナーが履いていた運動靴を見てピンとくる。帰国した四三は馴染みの足袋屋にゴム底と留め具に紐を使った足袋の開発を頼みこむ。
そして出来たのが、「金栗足袋」。耐久力が高く走りやすい日本初の「運動靴」はランナーに受け、多くの選手が使うようになった。
駅伝
お正月の風物詩、箱根駅伝。チームでひとつのたすきをつなぐ駅伝は数々のドラマを生み出してきた人気の大会だが、実はこの駅伝を作ったのも四三なのだ。
ストックホルムオリンピックで世界の強さを見た四三は、日本の陸上競技の底上げを図るべく奮闘する。
一度にたくさんの選手を育てることに適した大会として駅伝競走を思いつき、駅伝創設を提唱。1920年に「四大専門学校対抗駅伝競争」が開催された。今でも続く箱根駅伝のはじまりである。
女子スポーツ
四三が生きていた時代は陸上に限らず日本スポーツの黎明期であった。スポーツが今ほど広がっていない時代で、女子が体を動かすなんてもってのほかであると考えられていたのだ。
しかしオリンピックによって世界を見た四三は、日本でも女子スポーツを広めるべきだと考えた。
嘉納治五郎に相談し、四三は東京女子師範に赴任。生徒と一緒にスポーツに励み、当時考えられなかった女子スポーツの大会をどんどん開催する。特にテニスに力を入れたという。
今では当たり前な女子スポーツだが、最初に広めたのは四三だったのだ。彼がいなければ日本の女子スポーツの発展は、はるかに遅れていたかもしれない。
雑学まとめ
今回は日本初のオリンピック選手でマラソンの父である金栗四三についての雑学を紹介した。
ストックホルム大会への参加で日本におけるオリンピックの歴史を開き、帰国後も日本の陸上とスポーツのために走り続けた四三。
55年という長い長い記録はまさに、彼の人生を象徴するような大記録に思えてならない。