太宰府天満宮(福岡)・北野天満宮(京都)・湯島天神(東京)といえば、受験生が参拝する神社として知られている。そして、それらの神社に祀られているのは、「学問の神様」として知られる菅原道真(すがわらのみちざね)だ。
菅原道真といえば、詩人としても有名で、政治家としても右大臣まで上り詰めた人物である。そう考えると、学問の神様として祀られているのも至極当然だ…と思いきや、なんと当初は神様として祀られていたわけではなかった!
それでは、どんな理由で太宰府天満宮や北野天満宮に祀られているのか? 意外な雑学を紹介していこう。
【歴史雑学】菅原道真はもともと「学問の神様」ではなかった!
【雑学解説】菅原道真が「学問の神様」になるまで
改めて説明すると、菅原道真は平安時代に詩人・政治家として活躍した人物であり、数多くの和歌や漢詩を残したことで知られている。
867年に官位についた道真は、当時の宇多天皇・醍醐天皇のもとで昇進を続け、899年には朝廷の要職である右大臣となる。
このように天皇の信頼が厚かった道真だが、当時権勢を振るっていた藤原氏としては面白くない。また、異例の出世を妬む声も多かったようだ。
そして901年、藤原時平(ふじわらのときひら)を始めとする政敵の策略によって、道真は息子たちと一緒に太宰府へと左遷されてしまい、903年に失意のなかで没したのである。
菅原道真が「怨霊」となった理由
これで藤原時平の天下になった…と思われたが、道真の死んだ5年後に政敵の1人・藤原菅根(ふじわらのすがね)が雷に打たれて死去する事件が起こる。それに続いて、時平も病にふせて死去したことで「道真の祟りである」との噂が流れることになった。
さらに930年、天皇の住む内裏に落ちた雷によって、朝廷の要人に死傷者が出ると、「道真が怨霊になって、雷を落としたのだ」と信じられるようになったのである。
そのため、朝廷は雷神が祀られている京都の北野に北野天満宮を建立し、その怒りを収めるために菅原道真を祀ったのだ。さらに道真が左遷された大宰府にも、太宰府天満宮を建立し、天神として祀ったという。
北野天満宮や太宰府天満宮に祀られたあとも、大きな災害が起こるたびに「道真の祟り」とされていたが、ときが経つとともにその記憶も風化していく。
そして、道真の詩人や政治家としての功績に改めてスポットライトが当たり、怨霊だった彼は学問の神様として崇められるようになったのだ!
道真の晩年が悲惨なものであり、怨霊として恐れられていたとは意外である。
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【追加雑学】菅原道真は、そこまで優秀ではなかった!?
学問の神様として有名な道真だけに、出世する前からさぞかし優秀だったと考えるのが普通だろう。しかし、実は道真はそこまで学問に優れていたわけではないのでは? …という説もある。
当時最難関の国家試験だった「方略試」には「上の上」から「下の下」までの9段階の成績があったが、道真は方略試を合格点ギリギリの「中の上」という成績で受かったから…というのが理由だ。
しかし、この方略試は国家の大事を決める政治家を選ぶ試験であり、どんなに優秀な人物でも「中の上」と判定されるのが通例であったという。つまり、道真が学問に優れていなかったことには直結しない。
また、方略試とは高級官僚試験であり、現在の第一種国家公務員試験や東大を受験するようなものだ。それに合格するだけでも、道真がかなり学問に優れた人物であるのがわかっていただけるだろう。
というわけで、受験生の皆様は安心して菅原道真をお参りしてもらいたい。
雑学まとめ
「学問の神様」として知られている菅原道真が、当初は怨霊として祀られていたという意外も意外な雑学をご紹介した。
しかし、日本の三代悪妖怪のような悪の権化ではなく、のちに学問の神様として祀られたのは、その業績が偉大だったからだろう。
もし試験前に道真を祀っている神社に行くことがあったら、境内では失礼なことはしないよう気をつけていただきたい。もしかしたら、試験に落ちるだけでなく、雷まで落ちてくるかもしれないのだから…。