「この印籠が目に入らぬか!」でお馴染みの水戸黄門。勧善懲悪、日本の様式美。
諸国を巡り、悪を懲らしめる正義の味方。助さんや格さん、風車の弥七と魅力的なお供が脇を固めた。
しかし! 水戸黄門は7人存在していたことが分かっている。無論、TV番組で演じた役者の数ではなく、史実で確認されている黄門様の人数だ。
ちりめん問屋のご隠居1人だけじゃないだと? さらに、水戸黄門は副将軍でもなく、諸国漫遊の旅にも出ていないのである。
ここでは、ドラマで知ってる黄門様と違う、史実の水戸黄門雑学を紹介しよう。
【歴史雑学】水戸黄門は7人いた
【雑学解説】まさか影武者?水戸黄門7人の謎
「水戸黄門」は、徳川御三家の一つである水戸藩の藩主が、特定の役職に就いた場合に用いられる称号。光圀を含め7人の水戸藩主が中納言ないし権中納言に叙任されており、水戸黄門となった水戸藩主は、頼房・光圀・綱條・治保・斉脩・斉昭・慶篤の計7名である。
ただ、黄門様ポジションに就いた光圀以外の藩主が全て、水戸黄門と呼ばれていたかは不明なのがプチトリビア。そうか…影武者じゃなかったのか…。
でも、水戸藩だから水戸は分かるけど、「黄門」ってどこから来たのよ?
水戸黄門の「黄門」の由来
水戸黄門の「黄門」は、中国の唐名(とうみょう・からな)が由来。日本の中納言に相当する古代中国の官職名の一つ、「黄門侍郎・こうもんじろう」から黄門を用いた。なぜ、そうする必要があったのだろう。
この時代、「君君たらずといえども臣臣たらざるべからず」がお約束の身分制度社会である。たとえ主君に人徳がなくとも、臣下は臣下として礼節や忠義を重んじなければならない。当時の風習として、自分の名前(水戸光圀など)を、上級職に直接伝えるのは好ましくないタブーとされた。
そのため、藩の水戸と中納言の唐名の黄門を用いた「水戸黄門」を別称としたのだ。礼節を重んじる武士としての心掛けといえるだろう。もしかすると、権力闘争に明け暮れる他の御三家に隙を作らない意味もあったかもしれない…。
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水戸黄門が人気者になった理由
水戸黄門が一躍人気者になったのは、幕末期に作られた『水戸黄門漫遊記』が始まり。天下の副将軍・光圀が世直しの旅に出る内容であり、我々が知っている水戸黄門の原型だ。弱きを助け強きを挫くというスタイルは、大衆から喝采を浴びた。
いつの世でも、意地悪な悪人が懲らしめられると気分爽快、スカッとするものである。幕末期から平成にかけて人々に愛された理由は、シンプルながらも「最後は正義が勝つ!」という点にあるのだろう。
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【追加雑学①】諸国漫遊は水戸黄門じゃない?実際に動いたのは助さんと格さん
実際の水戸黄門・水戸光圀が諸国漫遊をしたという記録は全く残されていない。領内の巡検と江戸から国元への往復の行動が史記に挙げられている程度だ。
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では、助さんと格さんが諸国を巡ったのか? ということになるが、残念ながらこの助さんと格さんも架空の人物である。
ただ、モデルとなった人物は存在する。水戸藩は当時、『大日本史』という国史の編纂をしていた。この編纂に携わった二人が、助さんと格さんのモデルになったのである。
一人目のモデルは、水戸光圀の家臣であり儒学者の佐々十竹(さっさじっちく・後の佐々宗淳)。佐々十竹は光圀の命により各地へ派遣されている。
佐々十竹の幼い頃の通称が、介三郎(すけさぶろう)。ここから、助さんの名前である佐々木助三郎が付けられたわけだ。
二人目のモデルは、儒学者の安積澹泊(あさかたんぱく)。幼い頃は覚兵衛と呼ばれており、格さんの名前である渥美格之進は、ここから名付けられた。
助さんと格さんがドラマの中で良きライバル・相棒として描かれているように、実際の二人も友人関係であった。佐々は安積のことを「大酒飲みだが、柔和で正直な人物」と評している。
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【追加雑学②】水戸黄門は天下の副将軍ではなかった
水戸黄門といえば、「恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公であらせられるぞ~」が決め台詞の一つであるが、水戸光圀が副将軍に就いたことは一度もない。それどころか、江戸幕府において副将軍の役職が設けられたことは一度もないのである!
ドラマの台詞に目くじらを立てても仕方ない…。
ただ、仮に水戸光圀が副将軍と紹介されたとしよう。しかし「う~ん…まあ、そうだろうな…。」となる可能性は大いにあっただろう。先にも触れたように、水戸藩は将軍家に次ぐ御三家の一つ。意外でもなんでもないのだ。
万が一、将軍家に何かあった場合には、水戸藩主がトップに立ってもおかしくはない雰囲気があったといえる。また、そうなって欲しいと思っていた家臣もいただろう。もちろん、他の御三家、紀伊・尾張家は絶対に認めないだろうが…。
【追加雑学③】7人の水戸黄門様の中で、なぜ水戸光圀だけ有名なのか
7人の水戸藩主の中で、確実に水戸黄門と呼ばれたのは水戸光圀だけである。なぜ、光圀だけなのだろう?
黄門様ポジションに就いた藩主には、水戸藩中興の祖といわれた第6代藩主の徳川治保や、徳川家最期の将軍・徳川慶喜の実父である第9代藩主・徳川斉昭もいたというのに…。
水戸光圀が黄門様として有名なのは、『水戸黄門漫遊記』に端を発する講談やドラマの影響もあるが、当然それだけではない。実在した水戸光圀が庶民に愛された名君であったためだ。
国史編纂を指示するなど、水戸光圀の手腕は正伝『義公行実』や『久夢日記』などに数多く記されており、これらをベースに『水戸黄門仁徳禄』という実録小説が作られた。
雑学まとめ
ここでは、実在した水戸黄門の雑学に触れてきた。「水戸黄門」が役職に就いた、水戸藩主の別称であったとは。どうりで黄門様が7人もいたはずだ…。
しかし、水戸光圀が黄門様として庶民に愛されていたことは、史実的に間違いではない!「じ~んせ~い、楽ありゃ苦~もあるさ~」と水戸黄門のオープニングを耳にしたときは、ここで紹介した雑学を思い出してほしい。
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