時代劇といえば、何を思い浮かべるだろうか。
「暴れん坊将軍」「必殺仕事人」…シリーズ物の時代劇はいろいろあるが、中でも人気なのは「水戸黄門」だろう。
テレビシリーズの「水戸黄門」は全国各地を旅しながら世直しをする、勧善懲悪の物語だ。時代劇を普段見ない人でも、助さん角さんや徳川家の印籠など、「水戸黄門」のイメージは湧きやすいのではないだろうか。
それほどまでに、今なお親しまれている「水戸黄門」。しかし、実際の「水戸黄門」はドラマとは違っていたようだ…。今回は、水戸黄門にまつわる驚きの雑学をご紹介する!
【歴史雑学】水戸黄門は関東から出たことがない。
【雑学解説】鎌倉までしか出たことがない!?
徳川光圀は、水戸藩の2代目の藩主だ。水戸藩は「徳川御三家」と呼ばれる徳川家の藩。実際に家康の血が入っているので将軍の跡継ぎにも関係する重大な藩のひとつ。
光圀も家康の孫。超ボンボンである。それも二人の兄を差し置いて水戸藩の藩主となったのだからすごい経歴の持ち主だ。…とはいえ、堕胎されかけたほど父親に愛されずに生まれた光圀。その半生は決して明るくはなかった。
テレビでは金八先生と並ぶ「世直しおじさん」で通っているが、若い頃はグレまくっていた。派手な格好をして町に繰り出しては、刀を振り回して人を切りつけたり、吉原の遊郭に通いまくったりとやりたい放題。
とても破天荒だった光圀はその後も、かの有名な生類憐れみの令をガン無視して肉を食べまくったり、発案者の徳川綱吉に犬の皮を送ったり…。
おすすめ記事
-
水戸黄門こと徳川光圀は傾奇者だった。本当に名君だったのか?
続きを見る
こうした豪快で大胆、好奇心旺盛な人物像は当時から庶民人気が高く、「名君」として慕われていた。
そんな彼のライフワークは、全国漫遊世直し…ではなく『大日本史』の編纂。のちに幕末藩士に大きな影響を与える水戸藩独自の学問「水戸学」の基礎を作ったのがこの『大日本史』。この偉業の発案者として光圀は名を轟かせている。
この『大日本史』編纂の資料集めのために全国各地を飛び回る必要があった。…が、実際に飛び回ったのは彼の家臣たち。光圀自身は生涯をほとんど江戸、水戸から出ることなく生涯を終えたのだ。
全国漫遊などしていなかった光圀だが、その人気の高さや破天荒さから、史実とは違う創作がなされていったのだろう。
スポンサーリンク
【追加雑学①】日本で初めてラーメンを食べたのは水戸黄門
好奇心旺盛だった光圀。実は、日本で初めてラーメンを食べたのも彼なのだ。ラーメンが日本に伝わったのは明治時代だが、なんとその150年前にすでに光圀はラーメンを食べていたのである。
光圀が水戸の藩主だったころ、中国から亡命してきた学者が水戸藩に逃げてきたのだ。そこで光圀はラーメンのレシピを伝授され、みずから家臣たちに作って振舞ったという。
ラーメンだけでなく、チーズや餃子なんかも光圀が初めて食べたといわれている。生類憐れみの令の最中でも肉を食べることといい、彼の食への好奇心にはただならぬものがあったようだ。
おすすめ記事
-
日本で初めてラーメンを食べたのは水戸黄門(徳川光圀)!【水戸藩らーめん】
続きを見る
【追加雑学②】水戸黄門は7人いた
ところで、テレビシリーズの「水戸黄門」の本名は徳川光圀。では「水戸黄門」とは何を指しているのだろう。
実は、「水戸黄門」は役職名。水戸藩の中納言という役職を「水戸黄門」と呼んでいたのだ。つまり、徳川光圀以外にも「水戸黄門」はいる。光圀を合わせて「水戸黄門」は全部で7人いたのだ。
ところが、今や「水戸黄門」といえば、光圀一人を指していることが多い。圧倒的に人気なので仕方ないが、他の水戸黄門たちは少し不憫な気もする…。
おすすめ記事
-
光圀だけじゃない!水戸黄門は合計7人いた(影武者じゃなくて)
続きを見る
雑学まとめ
今回は水戸黄門についての雑学を紹介した。
勧善懲悪の世直しおじさんなイメージが強い水戸黄門。まさかこんなに破天荒で面白い人だったとは…。イメージがガラリと変わったが、より黄門様を好きになった気がする。