代々、室町幕府の将軍を務めた足利氏。大河ドラマ『麒麟がくる』でも向井理演じる足利義輝(よしてる)が目下活躍中である。
筆者が小中学生の頃は、室町幕府を建てた初代 足利尊氏(たかうじ)・金閣寺建立の3代 足利義満(よしみつ)・銀閣寺建立の8代 足利義政(よしまさ)・最後の将軍15代 足利義昭(よしあき)の4人は覚えるようにいわれた記憶がある。
あとの10人は、名前は聞いたことがあっても何をした人かわからない。だって多いんだもん。
しかし、6代将軍 足利義教(よしのり)は、無名でもある意味目を引く。何がって…? まさかのくじ引きで将軍に選ばれたことと、かなりの暴君だったことで知られる将軍なのだ。
…くじ引きで将軍を決めるとか適当かよ。今回は、そんな「くじ引き将軍」足利義教の雑学をご紹介しよう。
【歴史雑学】室町6代将軍「足利義教」はくじ引きで将軍になった
【雑学解説】「くじ引き将軍」足利義教の誕生秘話
足利義教は、3代将軍 足利義満の子どもで4代将軍 足利義持(よしもち)の弟。兄が2人いたため、若くして出家させられ、父である義満の後継者候補から外れた人物である。
寺では大僧正(僧の中のトップ)や天台座主(天台宗でトップのお坊さん)にのぼり詰めるほど、僧侶としての才能もかなりのものだったようだ。
1394年になると、兄である義持が義満の後を継いで4代将軍になる。
しかし義持はよほど子煩悩だったためか、38歳という若さで息子の義量(よしかず)に将軍の座を譲ることに。こうして1423年に義量は5代将軍となり、将軍家の血は義持の家系が継いでいくかのように見えた。しかし…。
義量は病弱だったため、なんと19歳の若さで急逝してしまうのだ。義量に子供はおらず、男兄弟もいない。こうして再び義持が将軍として政治を行うようになるのである。
ただ…義持は自分の子を次期将軍の座に就かせたい想いを捨てきれず、その後は後継者を定めずに将軍職を務め続けていた。つまり彼は新しく子どもが生まれるのを待っていたわけだ。
ところがその前に、今度は義持自身が病気で倒れてしまう。この将軍家の緊急事態が、「くじ引き将軍」の騒ぎを引き起こすのである。
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くじ引きで将軍を決めたのは無用な内乱を避けるため
5代将軍義量に続き、義持までもが死んでしまえば、将軍家の跡取りはいよいよ路頭に迷ってしまう。焦り始めた重臣たちは義持が危篤に陥る前に、次の将軍をどうするかを確認しようとした。
家来:「義持さま、次の将軍はどうしますか?」
義持:「勝手に決めてや」
家来:「え?」
義持:「だってさー、君らワシの言うこと聞かないじゃん? ワシが何言っても死んだら無視するのわかってるんだからね?」
なんとやさぐれて投げやりになっていた義持は、次の将軍を決めることを放棄したのだ!
自分の子を将軍にできないのなら、後のことはもうどうでもいいというのだろうか…。息子に先立たれてショックなのはわかるが、なんか無責任だよね。
こうなると次期将軍は義持の兄弟のなかから選出せざるを得ない。
候補となるのはすでに出家していた弟たち4人だったが、将軍が直々に決めたことならいざ知らず、一介の家来が次期将軍を決めたとなれば、幕府内で対立が生まれ、内乱にも発展しかねない…。
そこで考え出されたのが、くじ引きだ! 義教をはじめとする義持の弟4人の名前を書いたくじを石清水八幡宮で引けば、「神の意志」ということになり、誰も文句をいえないだろう…という考えだ。
くじ引きというと聞こえは悪いが、当時の感覚でいえばこれも立派な神事だったのである。
ともかく1428年1月、義教は次期将軍に選ばれることになり、翌年3月に晴れて(?)前代未聞の「くじ引き将軍」となったのだ!
一説にくじで選ぶというのはあくまで建前で、実は重臣たちのあいだで、義教が将軍に選ばれることは決まっていたという話もある。
まあ、運悪く4人のなかでも微妙な人が選ばれたら困るし、この説は普通ににあり得る話なんじゃないか。
また、くじで次期将軍を決めることを危篤の義持に報告したときも…
家来:「義持さま、次の将軍はくじで決めようと思います」
義持:「別にいいんじゃね? やっちゃいなよ」
家来:「はい、ありがとうございます」
義持:「ただし、ワシが死んでからにしてね。」
…という感じだったという。やっぱり自分の子以外が将軍になる事実を見届けたくなかったのだろうか。
ちなみに義持がずっと子どもが生まれるのを待っていたのも、くじ引きで「新しく男の子が生まれますよ」と出たからだという話もある。
みんなくじ引きあてにしすぎやろ…という話ではなく、それぐらい、当時の宗教観としては信憑性の高い儀式だったということだ。
【追加雑学】「くじ引き将軍」足利義教はどんな将軍?
義教は「くじ引きで将軍になった」というおもしろいエピソードがあるのに、学校であまり覚えるようにいわれないためか、言っちゃ悪いが影が薄い。
ここでは、そんな足利義教がどんな将軍だったかをもう少し掘り下げて見ていってみよう。
改名につぐ改名
義教の幼名は春寅(はるとら)。幼いころに寺に入れられ、法名は「義円(ぎえん)」と名乗った。くじ引きで将軍になることが決まり僧侶でなくなると、初めは「義宣(よしのぶ)」という名前にしたそうだ。
しかし、「よしのぶ」という名前は「世忍ぶ」に通じるため縁起が良くないとして義教に改名。僧侶をやめるときに、もう少し考えて名前をつければよかったのにね…!
将軍職で稀に見る暴君
くじ引きで選ばれた際、義教は将軍になるのを躊躇していた。先代の義持が家来たちのいいなりになっていたのを知っていたからだ。
そこで義教は家来たちに「どうしても将軍になってほしいなら、私のいうことを絶対に無視しないこと。私は自分の思い通りの政治をする」と宣言した。
とはいうものの、最初は政治のイロハもわからないわけで、重臣たちが権限を握っていたらしいが。
そして職務に慣れてきたころ…義教の恐怖政治は牙を剥き始める!
そうなのだ。義教の暴君具合は以下の通り。
- 家来の家督継承が、自分に都合よく行われるよう口を出し、従わない場合は暗殺
- 延暦寺の僧侶が気に入らないからと攻撃し、僧侶たちは抗議のため寺に火を放って自害(有名な織田信長の比叡山焼き討ちより140年も前に延暦寺を攻撃している!)
- 義教に説教しようとした僧侶の頭に焼けた鍋をかぶせたうえ、しゃべることができないように舌を切る
- お酌が下手という理由で、その場で侍女の髪を切り、尼寺へ送る
- 料理がまずいという理由で料理人を処罰
などなど…けっこうやりたい放題である。
室町6代将軍 義教は、当時の多くの人に「悪将軍」と呼ばれ、あの織田信長をして「悪御所」といわしめた稀代の暴君だった…! 歴史の授業で教えてくれないから全然知らなかったよ。
先代の義持のときは重臣に権限を握られている節があったので、義教が継いでからは「厳しい将軍アピール」をしていたようだが、ちとやりすぎのような。
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あまり知られてないけど…かなりやり手の将軍です。
暴君エピソードが強烈なため、話題に上がってもその部分ばかりが取り沙汰される義教だが、実は将軍としての手腕はかなりのものである。
天皇の継承問題をすんなり解決
義教が将軍に就任した1429年のこと、当時天皇を務めていた称光(しょうこう)天皇が危篤状態に陥り、後継者を決めなければならない事態になった。ところが称光天皇には子どもがいなかったため、皇室の方々はたちまち困ってしまう。
義持の病没といい、幕府も皇室も継承問題でややこしい時代だったのだな…。
なにはともあれ、ここで義教が将軍として最初の大仕事をやってのける。称光天皇の親戚にあたる彦仁王(ひこひとおう)が天皇の座に就けば皇室に波風を立てないことを見極め、先代の後小松(ごこまつ)上皇に進言したのだ。
案の定、後小松上皇も彦仁王が適任と考えていた。これだけならまあ、なんのことはない。
義教のすごいところは、上皇が「後継者に彦仁王を」と言う前から、あらかじめ京都に彦仁王を呼び寄せていたことである。
こうして頓挫するかと思われた皇位継承がすんなり行われることとなった。やるじゃん! 義教! やっぱり僧としてものぼり詰めた人だけあって、頭の回転は速かったのだろうな。
軍事力に傾倒し、幕府の権威を高めていった
義教の政策は「父・義満の時代のように将軍の絶対的地位を確立する」というもの。それこそ義満が行っていた中国・明朝との勘合貿易を復活させるなど、お父ちゃんへのリスペクトがかなり垣間見える。
しかしもっとも特筆すべきはとにかく軍事力に傾倒していったこと。その勢いは目を見張るものがあるぞ!
- 父・義満の代でさえ成し得なかった九州討伐を成功させる
- 自身を「くじ引き将軍」とバカにしていた鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)を討ち、関東への勢力を広める
- 奈良の有力国人のあいだで行われていた「大和永享の乱(やまとえいきょうのらん)」を武力で鎮める
また前述の比叡山延暦寺の制圧にしても、その軍事力を証明する一件といえるだろう。
このようにして各地の反抗勢力を抑えることで、義教は幕府の地位を強大なものへと仕立て上げていった。影響力を考えると、普通にもっと取り沙汰されていい将軍に感じるよね。
ちょっぴり残念な最期
暴君として恐れられていた義教は、残念ながらというか、これも報いというか…あんまり良い最期は迎えられなかった。
晩年は各地の守護大名の継承問題に口を出し、大名が意にそぐわなければ殺してしまうという政策を行っており、なんといっても敵が多かったのだ。
そんななか、現在の兵庫~岡山にあたる「播磨・備前・美作」の三国を治めていた有力大名・赤松満祐(あかまつみつすけ)が「次は自分が殺されるかも…」という危機感から、義教の暗殺計画を企てる。
満祐は義教をおびき出すため、こんな手紙を送った。
「うちの鴨が子どもを産んだのですが、それがめちゃくちゃかわいいから見に来てください。戦に勝ったお祝いもしましょう」
これを読んだ義教は喜び、意気揚々と屋敷へやってきたのだとか。悪将軍でもかわいい子鴨は見たかったんだな…。
こうして行われた宴会にて、義教が能楽に酔いしれるなか、満祐は刺客を仕向け、その首を斬り落としてしまう。くじ引き将軍の生涯は、こんな感じであっけなく幕を閉じることになるのだ。
雑学まとめ
今回はくじ引きで将軍になった足利義教の雑学を紹介した。
政治を取り仕切る将軍をくじなんかで決めてしまっていいのか!? …と思ったが、それも幕府内での無用な内乱を避けるためのもので、ある意味賢いやり方だったのだ。
しかも「くじ引き将軍」といってバカにされている割に、義教はかなりやり手の将軍ときた。これだけおもしろいエピソードがあるのだから、歴史の授業で取り上げればおもしろいと思うんだけどなー。
尊氏・義満・義政・義昭ぐらいしか知らない人に、ぜひ義教のことも教えてあげよう!