二世タレントなどが登場すると、決まって囁かれる「親の七光り」という言葉。親のネームバリューを利用して出世できたことを表している場合もあれば、親が大企業の社長などで苦労せず豊かな生活を送れるのを意味することもある。
要するにあまり良い意味の言葉ではない。たしかに親の名前だけで実力が伴わないなら鼻につく部分はあるが、自分で親を選んだわけではないのに、そう言われてしまう二世としてはたまらない。
…ところで、親の七光の「七」ってなんだ? 別に八でも九でもいいような気がするが、何かありがたい意味でもあるのだろうか。今回はそんな親の七光りの由来に関する雑学だ!
【生活雑学】「親の七光り」の「七」ってどういう意味?
【雑学解説】「親の七光り」に「七」が使われた理由とは?
親の七光りの七は、おおざっぱにいうと「大きな数字」の例として使われている。つまり親からそれだけたくさんの恩恵を受けられるというイメージだ。
ん? 大きな数字というなら、なおさら八や九でもいいではないか。…と思ったのだが、七が大きな数字の意味になることには以下のような諸説が唱えられているのだ。
あらゆる方角を表している
四方八方などというように、「北・北東・東・東南・南・南西・西・北西」と、方角は大きく八つに分けることができる。
このうちどこかひとつの方角に子どもがいるとすれば、残りの方角は全部で七つ。つまりあらゆる方角から恩恵を受けられる意味で、七は大きな数字とされているのがひとつめの説だ。
…子どもの位置を真ん中と捉えれば恩恵は八方向から受けられるのでは…。などというのは野暮か。
「この世は七つの世界でできている」という仏教の教えから
仏教の教えでは、この世は以下の七つの世界からできているとされている。つまり七はあらゆる世界を表す数字でもあるのだ。
- 地獄道…重い罪を犯した者が行く世界
- 餓鬼道…強欲者の世界
- 畜生道…弱肉強食の世界
- 修羅道…人を許せなかった者が行く世界
- 人道…私たちの暮らしている現世
- 天道…極楽世界
- 仏界…以上に上げた輪廻六道界から脱した仏の世界
仏教の考え方では、人は死ぬと天道へ行き、その前世の行いによって、次にどの世界に生まれるかが決まる。そうやって善行を積む修行を繰り返して、最終的に仏界に生まれ変わることを目指していくのが徳を積むということなのだ。
七光りの七がこの七つの世界を表しているとすれば、この世に存在する世界の上限として、大きな数字と見なされることにも合点がいく。
また「どんな世界に生まれようとも、親の愛情は届く」というように捉えられる点も、単に方角とするよりも意義深い感じがして筆者は好きだ。
とはいっても、親の七光りがあまり良い意味で使われないことに変わりはないのだが…。
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【追加雑学①】「七光り」には半人前という意味合いも?
若手落語家の月亭八光(つきてい はちみつ)は、師匠であり実父である月亭八方より、「親の七光を超えてほしい」という想いから、高座名に八光をもらったという。つまり八方氏は七を半人前の数字とし、まだ上があると考えたわけだ。
たしかに前述の方角の考え方でも、正確には上限の数字は八だし、仏教でも「八万地獄」「八万奈落」といい、物凄い数の地獄を表すのに八という数字が使われることがある。
こういった点を踏まえると、本当は八が上限という見方もできるのだ。つまりは「親の力だけでは七までしか行けない。そこから八に辿り着いてこそ一人前」ということ。
これが真の意味であるかはわからないが、親の七光りと馬鹿にされることも、バネにできるような考え方ではないか。
【追加雑学②】「親の七光り」は英語では?
親の七光りを英語に訳すと「parent's coat tails」。要するに「親のコートの裾」という言い回しになる。
偉大な親の燕尾服の裾持ちをしている様子を表しているのか、それとも親のコートの裾に隠れてコソコソとしているイメージなのか、英語になるとさらに小者感がすごい。
いや…これも「今はまだ親のコートの裾ほどにしか及ばないが、いずれは背丈さえ追い越してやるぞ!」のように捉えられなくもない。…ん? つまりなんでも本人の捉え方の問題ということか…?
「親の七光り」の雑学まとめ
今回の雑学は親の七光りの「七」について。七は「あらゆる方角を表している」「仏教の教えでこの世は七つの世界からなっている」などのことから、大きな数字の意味として使われていた。
いずれにしても本来は、親の愛情の大きさを表す言葉なのではないか。あまりいい意味で使われなくなったことには、どこか人間のひねくれた部分を感じずにいられない。
依存してしまうのはたしかによくないが、与えられた環境を活かして上を目指そうとすることは大いにけっこう。結局、良い意味になるか悪い意味になるかは、七光りを受ける本人次第なのかもしれない。