草花の中には、古き時代から薬草として用いられたものがある! 薬草と戦国武将の織田信長に、深い関係があることはご存知だろうか?
正確には、彼が宣教師に作らせた薬草園が、滋賀県・伊吹山という山に存在したという話だ。色々な文化を柔軟に取り入れるこの天下人にまつわるエピソードは数知れず。
信長の偉人エピソードに一つ加えても良いくらいの雑学をこれから紹介しよう!
【歴史雑学】織田信長が作らせた薬草園があった
【雑学解説】薬草園は山の中
これは信長が戦国大名として、イケイケの頃の話になる。当時、自身に謁見してきた宣教師カブラルから「人の病気を治すには薬草が必要だから、薬草農園を作っては?」という進言を受け、彼に薬草園を作らせる許可を与えた。
その後、およそ3,000種にも及ぶヨーロッパ産の草花やハーブ類を持ち込ませ、当時の伊吹山の中に薬草園を作らせたことが、話の始まりである。
この伊吹山は、信長が好んで使った火縄銃の火薬材料「ヨモギ」が自生していたこともあり、まさしく農園を作るのにはうってつけの好環境であったのだ。
どのくらいの広さ?
ちなみに、作らせた薬草園の面積は50町歩と伝わっている。町という単位は、現在あまり聞きなれないだろうが、おおよそ1町=10,000平方メートル弱になる。
単純に10,000平方メートル×50とすれば、500,000平方メートルにもなる! ありきたりなたとえですまないが、これは東京ドームおよそ10個分にあたり、相当に広い。
信長はこの広大な敷地内で、豊富な数の薬草やハーブが生い茂る農園を作らせたという話だ。
今はどうなっている?
残念なことに現在では、薬草園のあった痕跡が残されておらず、場所は不明となっている。それは信長が亡くなった後の世に実権を握った豊臣秀吉が、宣教師達を国外に追放した影響で農園が機能しなくなり、そのまま無くなったのではないかと考えられている。
しかし、薬草自体は後の世も重宝され、日本各地へ運ばれ続けた。現地の薬草は「伊吹薬草」としていまだに有名だ。
今でも伊吹山には多くの草花・薬草が自生し、当時の名残を残しつつ、山の一部は観光地やドライブウェイとして人気の場所となっている。
農園名残の草花
さらに伊吹山には、薬草園が存在したことを証明する植物がある。それは、キバナノレンリソウ・イブキノエンドウ・イブキカモジクサという三種の草花が自生していることだ。
これらは信長がカブラルに持ち込ませた草花の種が元とされ、伊吹山特有の植物。農園が存在した生きた証拠ということである。
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【追加雑学①】農園を作らせた宣教師はどんな人?
信長が薬草園を作らせたフランシスコ・カブラルがどういった人物なのかも気になるところ。彼はスペイン生まれのイエズス会宣教師で、学術に明るい優秀な人物であったそうだ。
カブラルはルイス・フロイスを伴って永禄年間(1558~1570年)に安土城で信長と謁見、その擁護を受けた。その際に信長に農園を作るよう進言し、この雑学へと繋がったわけだ。
ただ、ご本人に対して失礼な話ではあるのだが、他のフランシスコ・ザビエル、上記のルイス・フロイスといった名だたる宣教師達と比べると、カブラルという名前はあまり聞き覚えがない。
しかし一説では、短気で高慢な性格を持ち、日本人信徒との溝から、自国の言語や文化などを伝えたがらなかったという話もある。教会から派遣され、新しい教えを人々に普及するのが役目の宣教師なのにだ。
あまり有名でもなく、人格も散々たる伝わり方をしていて、何かと哀れな人物に感じる。しかし、カブラルが人々の病を治すために、園を作ることを信長に進言したとすれば、それだけでもいい人? のようにも感じる。
何かと不思議なエピソードを持つ人物に思えないだろうか。
【追加雑学②】しかも妖怪と間違われた!?
このカブラルを、印象が薄く微妙なイメージの人物像だけで終わらせるのは、筆者としても心が痛む。そこで、彼のイメージが少し変わるユニークなプチトリビアを紹介しよう!
それは信長への謁見時のこと。一緒に居たルイス・フロイスによれば、この時カブラルは近視のため、眼鏡をかけていたそう。
当時の日本では眼鏡はまだ普及しておらず、カブラルを見た城下の民は「異国人はおめめが四つある!」と錯覚したため、その四ツ目カブラルを見ようと、より民衆が殺到したんだそうな。
異国のファッションが珍しがられるのはわかるんだけど、妖怪じゃないんだからさぁ…。自分の身に置き換えても、やんややんやと見世物のように、人々が物珍しがって集まってくるのはあまり良い気分ではない。
もしかしてだが、このエピソードでカブラルは日本人に悪い印象をもってしまい、海外文化を伝えたがらなったのではないかと思ってしまった。
雑学まとめ
信長の薬草園についての雑学を紹介したが、いかがだっただろうか。初耳の人も多かったのではと思う。もし、彼が本能寺の変のあとも生きていて、そのまま天下を取っていたのなら、この薬草園をどういう風に発展させたのか興味が湧いてこないだろうか。
薬草の中にハーブ類もあったのだとしたら、採ったハーブで信長がティータイムを楽しむ光景を想像してしまった。
安土のお城でハーブティーを飲みながら、カステラやこんぺいとうで午後の一時…。そんなシーンを想像すると少し和む。他にも南蛮渡来の品々を嗜んで、ご満悦の信長公を垣間見れる話もあるのかも知れない。
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