執筆活動をしていると、「このまま死んだら、この原稿はどうなるのだろう?」とふと思うことがある。
書き始めたばかりの原稿ならまだしも、おおむね書き終えていたなら「もっと早く書いておけばよかった」と、悔しがる光景が目に浮かぶ。
これは作曲家も同じことで、何らかの理由で最後まで作り終えることができず、未完成のままで世にでて、人気を博している曲がある。
その中でも最も馴染みのある曲は、シューベルトの曲であろう。曲の名前がそのまま「未完成」とつけられているので、音楽に精通していない人でも、この曲が未完成であることはおのずと分かる。
今回は、なぜこの曲が未完成のままになったのか、それなのにこれほどの人気となった理由について、雑学としてまとめてみた!
【歴史雑学】シューベルトの交響曲が「未完成」な理由
【雑学解説】諸説あり!「未完成」は音楽史最大の謎のひとつ
どこが未完成なのかというと、「交響曲」と呼ばれる曲は、ハイドン(1732年〜1809年)以来、4楽章で構成されるのが基本であった。にもかかわらず、これは、その半分の2楽章しか書かれていないのである。
あと半分も残っている状態で終わっている理由については、いくつかの説があり、「音楽史最大の謎のひとつ」とされている。
以下4つのような推理がされている。
- 第2楽章までがあまりにもよく書けたので、それ以上は必要なく、変則的だがこれで完成しようと考えた説。
- シューベルトは様々な曲を並行して書き散らす癖があったため、この曲の第2楽章まで書いたあと、他の作曲に移ってしまい、この曲のことを忘れてしまった説。
- この曲については無計画に取り組んでしまった。そのため、第1楽章と第2楽章で3拍子の曲が続いてしまい、そのあとにメヌエット(またはスケルツォ)という3拍子系の楽章が続くことに途中で気づき、行き詰ってその先が書けなくなった説。
- 彼の伝記映画「未完成交響楽」(1933年、オーストリア)にもでてくる話で、失恋の痛手からその先が書けなくなったという説。
このように、様々な推測がされており、いまだ真相は謎のままである。そのことが一層この曲の魅力を高めているともいえるだろう。
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【追加雑学①】シューベルトの死後、32年目に発見!
この曲は、シューベルトの死後32年経ってから、親友だったアンゼルム・ヒュッテンブレンナー宅の書棚で発見される。
発見者は、ウィーン学友協会の指揮者をしていたヨハン・ヘルベック。彼は、シューベルトの再評価の波に乗り、埋もれた作品がないか探していたようである。
発見時に「これはすばらしい曲だ!」と直感し、ヒュッテンブレンナーと交渉のうえ、1865年にウィーンで初演されることとなる。
これが、死後ずっと眠り続けていたシューベルトの「未完成」が初めて我々の前に姿を現した瞬間であった。このドラマのような展開も、この曲が人気になった理由のひとつかもしれない。
【追加雑学②】未完成ではあるが、すばらしい楽曲!
未完成ではあるが、2つの楽章の演奏を聴くと実にすばらしい! 2つの楽章だけで描ききっている感のある演奏を一度聴いてみて欲しい!
学者たちの中には、この曲の完成版を試みた人もいる。ブライアン・ニューボルトは、スケルツォの第3楽章を完成させ、それに劇音楽「ロザムンデ」の「間奏曲」を第4楽章を当てるということをしている。
ただ、やはり付け足し感は否めなく、第2楽章までの未完成のままのほうがよい! という意見もあるようだ。
雑学まとめ
今回の雑学はいかがだっただろうか。シューベルトの交響曲が「未完成」な理由は、こうである! と断言したかったのだが、調べれば調べるほど様々な説がでてきた。
そもそも、シューベルトはこれを完成と考えたのかさえも、謎に包まれている。
真相は本人以外誰にも分からない永遠の謎だからこそ、この曲に魅了される人が多いのだろう。
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