コーヒーを飲んでおいしいと感じるようになったのは、何歳の頃だっただろうか。子どもの頃少し飲ませてもらったコーヒーは、黒くて苦い得体の知れない液体であった。それなのに、今では一日に何杯も飲むときがあるのだから、人生わからない。
最近では缶コーヒーはもちろん、その場でドリップした本格的なコーヒーをコンビニで手軽に楽しむことができる。日本人の生活において、コーヒーはかなり浸透しているといっていいだろう。
しかし、実は日本でコーヒーが広まるまでには長い時間がかかっているという。今回は、コーヒーを日本に広めたシーボルトについての雑学を紹介していく!
【歴史雑学】コーヒーを日本で広めたのはシーボルトで「骨喜」と紹介した
【雑学解説】コーヒーは当初薬とされていた
コーヒーが日本にやってきたのは、江戸時代。鎖国の中でも唯一貿易を行っていた長崎の出島に、オランダ商人が持ち込んだのが最初といわれている。
そこから200年以上あとの1823年、オランダ商館医として来日したのがシーボルトである。シーボルトは、著書「江戸参府紀行」の中で「200年も前からオランダ人と交流があるのに、日本でいまだにコーヒーが広まっていないことは驚きだ。」というようなことを記している。
そして、その原因は「日本人にはミルクを飲む習慣がないこと」「コーヒー豆の煎り方をよく知らないこと」ではないかと考えていたようだ。
コーヒー豆を焙煎して挽いた状態でビンや缶に入れ、説明書を添えて販売したらどうか、という具体的な案も出していたが、それは実現しなかった。
そのかわりと思ったかどうかはさだかではないが、別の著書「薬品応手録」では、「骨喜(コッヒー)」という名で、健康にいい飲み物として掲載されている。「薬品応手録」にはヨーロッパで常用されている薬草とその代用品について書かれており、コーヒーも薬として紹介されたのである。
「薬品応手録」は大阪で印刷された後、各地の医師に配布された。コーヒーという飲み物があることが、シーボルトによって広められたといっていいだろう。
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【追加雑学①】インスタントコーヒーは「カップ・オブ・ジョージ」と呼ばれていた
では、アメリカのコーヒー事情はどうだったのか。16世紀中頃にアメリカに入ってきたといわれるコーヒーだが、すぐに一般家庭に広まったわけではなかった。当時、コーヒーは高級品だったのである。
その後、米英戦争の影響やアメリカの独立などを経て、コーヒーの価格は徐々に下がっていった。そして、1853年には初めてのインスタントコーヒーが開発されたのである。
その後、ベルギーから移住してきたジョージ・コンスタント・ルイス・ワシントンという人物がインスタントコーヒーを大量生産する製法の特許を取得したものの、さして人気はでなかったようだ。ちなみにこの人物、アメリカ合衆国初代大統領のジョージ・ワシントンとは別人である。
このいまいち人気がなかったインスタントコーヒーが一躍大人気となったきっかけは、第一次世界大戦である。兵士が再び戦地に赴いたとき、戦場でも手軽に飲めるインスタントコーヒーは兵士のあいだで大変な人気を博したのだ。
そして、インスタントコーヒー生産の特許をもつジョージの名前をとって「カップ・オブ・ジョージ」と呼ばれるようになったのである。
戦争が終わってからも兵士たちはインスタントコーヒーを好んで飲み、やがて一般家庭にもインスタントコーヒーが浸透していったのだ。
【追加雑学②】コーヒー豆栽培に適した範囲をコーヒーベルトという
コーヒーの原料となるコーヒー豆は、コーヒーノキという植物の種子である。コーヒーノキは寒さに非常に弱く、0℃を下回ると枯れてしまう。また、植えてから実がなるまでには2~3年かかる。
そのため、コーヒーノキは赤道付近の年中暖かい地域でのみ栽培されている。それが「コーヒーベルト」と呼ばれる範囲である。
具体的には北回帰線と南回帰線のあいだをさし、ブラジルやコロンビア・グアテマラなどのコーヒーの産地も、このコーヒーベルトの中におさまっている。
雑学まとめ
今回の雑学では、今では誰もが普通に飲んでいるコーヒーが、生活に浸透するまでに非常に時間がかかっていたことがわかった。緑茶を好んで飲んでいた日本人にとって、突然現れたコーヒーはなかなか受け入れがたかったに違いない。
どうして国産のコーヒー豆は見ないのだろうと思ったこともあったが、コーヒーノキが寒さに弱いとわかった今では納得である。日本の気候で栽培するのは相当難しいだろう。
手軽に楽しんでいるインスタントコーヒーも、当然コーヒー豆からできている。暑い国で栽培してくれている人たちに思いをはせながら、今日の一杯を楽しむことにしよう。
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