『吾輩は猫である』『坊ちゃん』などで知られる文豪・夏目漱石。歴史好きや作品のファンでない人にとっても、旧千円札の人として認知されている偉人である。
小説家のイメージが強い漱石だが、それは晩年の話で、もともとは凄腕の英文学者。イギリスでの英文学研究を文部省からお願いされるほどの天才なのだ!
私たち凡人とはそもそも脳ミソの出来が違うのだろうな…。何? 今でも漱石の脳は残ってるって!?
ということで、今回は夏目漱石の脳に関する雑学である。
【歴史雑学】夏目漱石の脳は東大に保管されている
【雑学解説】夏目漱石の脳はどんな感じだった?
夏目漱石の脳は現在も「東京大学医学部標本室」にて、ホルマリン漬けの状態で保管されている。残念ながら一般公開はされていないようだが。
作家としては言わずもがな、教師時代にしても右に出る者がいないぐらいのエリートだった漱石のことだ。どんなに大きな脳をしていたのだろう…。
と、思うところだが、その重量は1,425g。成人男性は1,350~1,500gぐらいが一般的とされているので、平均と比べてさして大きいわけではない…意外である。
しかし重量こそ普通でも、頭の回転の速さや、言語処理の能力を司る部位にあたる前頭葉は著しく発達しているという。やはりという感じだが…それでさほど重くないということは、かなり偏った才能の持ち主だということか?
ちなみに記録されているなかで一番重いのは、19世紀ロシアの文豪イワン・ツルゲーネフの2012gである。平均より500g以上重いとは…ツルゲーネフ、頭めっちゃデカかったんじゃない?
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解剖の理由は、夏目漱石の五女・雛子の死
肝心なのは、なぜ東大に彼の脳が保管されているのかである。これは漱石の主治医であった東大病理学教授の長与又郎(ながよまたお)に、漱石の妻・鏡子が解剖を依頼したからだ。
解剖を行ったといっても、漱石の死に事件性があったわけではない。鏡子は生前の漱石のある想いを汲み、解剖に踏み切ったのだ…。
1911年11月29日、漱石が亡くなるちょうど5年前のこの日、まだ1歳を迎えたばかりの五女・雛子が突然死した。このとき夏目夫婦は娘を解剖せずに弔ったため、その死因は結局わからずじまいだったのだ。
後年、漱石はこのことを「娘がなぜ亡くなったのかを知っておくべきだった」と、後悔し続けていたという。
本人がこの世を去った際、その姿が脳裏によぎった鏡子は漱石の想いを汲み、また医学の進歩の手助けになることを彼も望んでいるだろうと、解剖を依頼したのである。
漱石の小説には家族愛が伝わるものも多い。それゆえ、雛子の死が彼にとってどれほどの衝撃だったかは察しがつく。実際このころノイローゼにも悩まされているし、晩年の漱石は死を目前にしながら悲痛な想いを抱えていたのだ。
【追加雑学】東大医学部の標本・模型のラインナップがすごい…
東大医学部標本室には、漱石の脳以外にもさまざまな標本や模型が保管されている。
…まあ、そりゃあ標本室だしな。という感じだけど、そのラインナップが明らかに普通じゃないのだ。特に興味深いものを中心に見てみよう。
エジプトのミイラ
1888年に在日フランス領事館から譲り受けたエジプトのミイラ。約2,000年前の青年神官"ペンヘヌウトジウウ"さんのものだといい、これもX線やCT検査による研究の末わかったものだという。
…そんな前の個人情報までわかっちゃうって、医学の進歩すごくない!?
世界初の人工がん
1915年のこと、山極勝三郎教授・市川厚一教授が世界初となる人工がんの発生を成功させ、そのときに使われたウサギの耳が今でも保管されている。
なんでも石炭から摂れるコールタールを何度も塗り発生させたもので、外的な刺激からがんが発生することを証明した初の例だという。日本医学の誇り!
タールといえばタバコだよね。発がん性物質怖い…。
このほかにも…
- 明治元年にフランスから持ち帰られた眼球模型
- 安土桃山時代に作られた鍼灸治療のための木製人形(原型は室町時代に明から持ち帰られた)
- 江戸時代末期に大阪の整骨医が作った木製の人骨模型
- 江戸期に流行した全身刺青の標本
などなど、まるで歴史博物館並みのラインナップが並んでいる。ちなみに人骨模型に関しては、本物の骨とほとんど見分けがつかないほど精巧に作られているというぞ。これぞ日本の職人技(?)。
これらの標本は模型は、基本的に医療関係者が許可を得て初めて観られるもの。また医学部の学生なんかは、授業の一環として観ることができたりするようだ。めちゃめちゃ興味そそられる…。
観られたとして、インスタ映えとかしたらめっちゃ怒られるんだろうな。
雑学まとめ
今回は、夏目漱石の脳が今も東大医学部の標本室に保管されているという雑学をお伝えした。前頭葉が発達し、回転の早かった彼の脳は死してもなお、医学の発展という形で人の役に立とうとし続けたのだ。
没する数年前に痛ましい事件があったといっても、やはり愛する夫の遺体を解剖に出すのは勇気のいることだろう。夏目夫婦がいかにお互いのことを理解し合っていたかが、垣間見える逸話である。