スフィンクスと一緒に記念撮影。海外旅行が当たり前になった現代においては、特別珍しいともいえない構図だ。
写真を見せたとしても、せいぜい「あ、エジプト行ってきたんだ。楽しかった?」ぐらいな感じで、驚かれるようなことはないだろう。
ただ、江戸時代の武士がそんな写真を日本に持ち帰ったとしたら、町中の人が集まってくるレベルではないか。…江戸時代の人じゃ、スフィンクスって上手く発音できないだろうな。
などという偏見は置いておいて。実は本当にスフィンクスと写真を撮った武士がいるというから驚きだ。
【歴史雑学】江戸時代にスフィンクスと写真を撮った日本人がいる
【雑学解説】スフィンクスと侍の記念撮影はどうやって行われた?
ときは幕末、1864年のこと、着物に笠、腰には刀というバリバリの侍ファッションで、エジプトのスフィンクスと写真を撮った34人の男たちがいた。海外旅行などそうそう行けるはずもないこの時代にその地に降り立った男たちは、コスプレ好きの外国人ではない。
江戸幕府がヨーロッパへと派遣した、池田長発(いけだながおき)率いる第二回遣欧使節団…別名「横浜鎖港談判使節団」である!
長ったらしい名前が読みにくい彼らは、幕府からフランスとの交渉を命じられ、横浜港から上海、インドを経由してエジプトへ、そして陸路でヨーロッパへと向かった。
その道すがら、せっかくだからエジプト見物も…と、ギザの三大ピラミッドやスフィンクスを見て回ったのである。動画内で触れられているが、決してスフィンクスの鼻を斬り落としに行ったわけではない。
なぜ幕府はフランスに使節を派遣した?
気になるのはどうして彼らが遠路はるばる、フランスへと向かう必要があったのかということだ。これは端的にいうと、混乱を極めていた幕末の情勢において、幕府の威厳をもう一度立て直すためである。
1863年6月25日、当時の天皇であった孝明天皇の命により、幕府は諸外国との交渉を打ち切るため、窓口になっていた横浜港を閉鎖する構えを取った。
当時の日本には、外国から不利な外交を押し付けられているという観念があり、外来のものを廃止しようという流れが強かったのだ。1854年のペリー来航による開国から10年足らずで、日本は再び鎖国の道を辿ろうとしていたのである。
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ところが日本とそのまま外交を続けたかった諸外国は、幕府の打診に大ブーイング。これにより政策は一度撤回された。
しかしこの時期に薩摩藩、長州藩は諸外国と戦争を起こし、横浜ではフランス人の殺害事件まで起きるなど、排外的な思想をもった国民が大暴れ。現状どおり外交を続けていては、国内の混乱がさらに拡大していくことは目に見えていた。
そこで幕府はフランスに直接出向いて、横浜港閉鎖の交渉を成功させることで、内情を鎮静化させようとしたのだ。
こうしてエジプトに訪れた遣欧使節団は、ただの観光客ではない。文字通り日本の命運を背負い、フランスを目指すまさにその最中だったのである。和装とスフィンクスはいかにもアンバランスだが、まあ…束の間の記念撮影ぐらい、許されてしかるべきだろう。
【追加雑学】フランスとの交渉は失敗…しかし新時代の足掛かりに?
遣欧使節団がフランスに対して行った横浜港閉鎖の交渉は、結局フランス側に拒否される形で失敗した。
それどころか、使節団の団員たちは現地で諸外国の文明を目の当たりにしたことで、「こんなに強い国相手に鎖国なんてしていたら、あっという間に飲み込まれてしまうぞ」という思いを抱くことになる。
そして幕府が望んだ鎖国とは真逆の、フランスと友好的な外交を約束するパリ約定を締結して帰ってきたのだ。挙句の果てに、国内においては開国の重要性まで説き始めるのだから、幕府も「いやいや! 聞いてないよ!」という感じだっただろう…。
こうして使節団は揃って罰せられることになってしまうのだが、後の日本が開国へと歩を進め、明治という新時代を迎えたことには、彼らの活躍が一因になっているといえる。
雑学まとめ
江戸時代、エジプトのスフィンクスと記念撮影をした武士たちは、幕府がフランスへと派遣した第二回遣欧使節団の面々。彼らは日本の命運を背負って海を渡り、幕府の意向にこそ沿わなかったものの、外交の大切さを国民に伝えようとした。
日本が開国していなかったら、現在のように先進国として発展することもなかっただろう。海外へ行くことが一世一代の大冒険だった150年前の世において、勇気の行動を起こした彼らに敬意を表したい。