1603年に徳川家康が征夷大将軍となり、江戸城無血開城が行われた1868年までの265年間、江戸時代が続いた。
江戸時代の将軍を問われると、家康や暴れん坊将軍である吉宗、最後の将軍の慶喜あたりが有名であるが、全ての将軍の名前がスラスラと出てくる人のほうが少ないだろう。
さて、江戸時代265年の中で15名の将軍が誕生した。しかし、各将軍がどのくらい期間に渡って将軍の座についていたか、知っているだろうか? ちなみに、一番長い在位は50年なのだ…! 長っっっ!!
今回は、徳川将軍15人の紹介をしつつ、その在位の長さについてもご紹介していこう!
【歴史雑学】徳川家の歴代将軍15人の一覧!
初代将軍:徳川家康(とくがわいえやす)
言わずと知れた初代征夷大将軍であり、江戸時代の始まりの祖。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」な性格をしており、忍耐強さで天下をゲット。そんな家康の将軍在位は、1603年2月〜1605年4月までの約2年2カ月。
すぐに二代将軍・家忠に将軍職を譲ったので、将軍在位期間はわりと短い。
遅咲きの初代将軍
家康が将軍となったのは61歳のとき。人間50年の時代にハンパねえっす。
逆算すると、天下統一を果たした1600年の関ヶ原の戦いのときには50代後半だったわけだ。当時でいえばだいぶジジイ。三成、じいさんに負けて悔しかっただろうな…。
健康志向?いやいや、オタクの域です
家康は73歳で没しているが、薬に関する知識がとても豊富だった。もはや薬オタクといってもいいくらいである。
病気になっても自分で薬を調合したり、合戦時に傷ついた兵士の傷口を洗って感染を防いだだりと、医師なみの活躍っぷり。そのため、家康軍の兵士の死亡率が低かったという逸話がある。
そこまで健康にこだわったからこそ、晩年で天下が取れたわけだ。我慢って大事。
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第2代将軍:徳川秀忠(とくがわひでただ)
家康の実子。家康が亡くなるまでの間は、タッグを組んで江戸を統治していた。
統一国家としての法律など、江戸時代初期の基盤を作った人物。父・家康よりも政治の手腕を評価する声もある。親父が有名すぎるせいか、一般的にあまり知られていないのがかわいそう。
秀忠の将軍在位期間は、1605年4月から1623年の7月までの約18年3か月。
武将としては残念…!
秀忠は関ヶ原の合戦の際、大軍を率いて真田氏の信州上田城を攻めた。しかし真田の籠城作戦に見事にハマり、関ヶ原の戦いに遅刻するという恐るべきチョンボをしてしまう。家康にはクソほどキレられた。当たり前。
そこで名誉挽回にと、豊臣家との決着をつけるために参加した大坂冬の陣!
関ヶ原でめちゃめちゃキレられた教訓を活かし、遅刻しまいと急いで大阪へ向かった。しかし、休みなく進軍したため兵は疲れ果て、まともに戦えるわけもなく…。家康にまたキレられる結果になったとさ。
秀忠が将軍になれた理由は?
武士としては失敗ばかりだったが、家康は「これからは守りの時代」と考えていた。「知」に長ける秀忠なら、江戸幕府の基盤を強固にできると踏んで将軍に任命したところもあるようだ。
実際、公家諸法度や武家諸法度などの法律の整備を行い、江戸幕府の基礎を作り上げた点は大きく評価されている。政治家としてはスゴかったわけだ。
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第3代将軍:徳川家光(とくがわいえみつ)
絶対テストに出る将軍。
秀忠の実子(長男)で、老中・若年寄などの幕府内の役職整備や、参勤交代・鎖国といった江戸時代ならではの制度を作った。大奥が作られたのも家光のときである。エロガッパめ。
将軍在位期間は、1623年7月から1651年4月までの約27年9か月。けっこう長い。
家康じいちゃんが好きすぎて…
祖父・家康のことをすんごく尊敬しており、家康の死後、家康を祀る(神格化する)ために日光東照宮を改築したが、50万両以上の金額が掛かっている。
ざっくりだが、江戸時代の1両は現在の約13万円なので、50万両は650億円である。アホか。
また、多額の費用がかかる参詣も3度行っている。このことによって、家光が江戸幕府の財政を厳しくしたとかしてないとか…。財政が大変になってしまった江戸後期の将軍はうらやましがったにちがいない。
そういえば、肖像画も家康にどことなく似ている…。
BLも。恋多き将軍
若いころから男らしい男を好んでいた話が残っており、気に入った相手には領地を渡したり、他の者とは明らかに態度が違ったりしたこともあったようだ。
ただ、相手に彼女がいたり子どもができたりすると、位を下げたり領地を没収したりと嫉妬深い一面もあったらしい。公私混同が極まっている。
そんな感じだったので40歳手前まで子供ができなかったが、実子ができてからは女性に目覚め、母(春日局)が大奥を作ったのも有名な話。エロガッパめ。
第4代将軍:徳川家綱(とくがわいえつな)
家光の実子(長男)であり、家光急逝後に11歳で将軍職に就任する。こりゃ大変。
各制度や法律の強化を行い、秩序の安定と維持を図った(文治政治ってやつ)。将軍在位期間は、1651年4月から1680年5月までの約28年9か月。若い頃からがんばりました。
心優しき将軍
家綱に関する資料は少なく、文治政治を行ったことや、明暦の大火で幕府の財を切り崩して復興に当てたことぐらいしか大まかなものはない。
しかし、島流しにあった罪人に食事を与えていないことに疑問を持ち、そこから罪人にも食事を与えるようになった逸話が残っている。
また食事の際のエピソードもある。汁物に髪の毛が入っていたことがあった。家綱はそれを気にせず手でつかむと、小姓が汁を取り替えようとしたときに「空にして持っていきなさい」と指示し、おかわりを装ったという話。いいやつやないか。
でもいいやつって有名にならないよな…。
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第5代将軍:徳川綱吉(とくがわつなよし)
家光の実子(四男)であり、学問や能を好んだ。争い事を好まない人物であったが、我が強く癇癪もちでもあった。簡単にいうとやっかい。肖像画からもそんな感じがする。
伝説的な法律「生類憐みの令」を作り、捨て子の禁止や動物の保護などを行った。切り捨て御免の風潮の廃止もこのころから行われている。
将軍在位期間は、1680年8月から1709年1月までの約28年5か月。兄にあたる四代将軍・家綱に4ヶ月負け。
「生類憐みの令」は悪名高い法律?
現代でも、「生類憐みの令」が綱吉の代名詞だ。
捨て子の禁止や動物の保護を目的としていたが、魚や貝、昆虫などなど、保護の範囲がスゴいことになっていた。蚊も殺せない生活に庶民はイラつき、「天下の悪法」とボロクソに言われ、綱吉の将軍としての評価も下がりまくりだった。
しかし近年では、儒教に基づく文治政策の一環と考えられるようになり、評価が上がりつつある。たしかに、やりすぎたとはいえ、現代の「動物愛護法」の先駆者だもんね。
ちなみに、ついたあだ名は「犬公方」。特に犬を保護しまくったからだ。
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七五三の由来を作った
11月に神社で行われる七五三。これは綱吉が始めたとされている。病弱な自分の長男の健康を願ってのことだったのだ。
オラオラ系な親父が我が子には弱い…どの時代でも変わらないものだ。ただ、長男は5歳で亡くなってしまっているのがかわいそう…。
第6代将軍:徳川家宣(とくがわいえのぶ)
甲府藩主・徳川綱重の実子であり、三代将軍・家光の孫にあたる。先代・綱吉の政策を排除した「正徳の治」を行った。親父じゃないとこういう排除はやりやすいよね。「生類憐れみの令」も廃止。
学問に精通しており、知識人からも「ここまで勉強熱心な方はいない」と絶賛されたんだとか。
将軍在位期間は、1709年5月から1712年 10月までの約3年5か月。短い…。学者タイプは早死するよなあ…。
水戸黄門のゴリ推し
家宣は、先代将軍・綱吉との折り合いが良くなかったとされている。では、将軍になれたのはなぜか?
それは、水戸藩主・徳川光圀(水戸黄門)の強い推薦があったからだといわれているのだ。
光圀は綱吉と仲が良くなかったため、早世した綱吉の長男に変わり、次期将軍は自分と縁がある人間がいいな〜という目論見があったのだろう。
ただ、家宣は家光の孫にあたり、将軍としての素質は十分。推薦しても不自然ではなかったわけだ。
心優しく慈悲深い人物
先代将軍・綱吉が行った政策は、当時の庶民からは不満が多く出ていた。伝説的な法律のせいだ。
家臣は不満を厳しく取り締まるべきではと家宣に意見したが、「批判の中に重要なことあり」と庶民の声を聴き、政治を行った。
顧客の声を接客に反映する飲食店の社長みたい。この時代にスゴい。
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第7代将軍:徳川家継(とくがわいえつぐ)
六代将軍・家宣の実子(四男)であり、若干4歳で将軍職に就任。若干すぎる。父と同じく「正徳の治」を行った。
立ち振る舞いは大人顔負けであり、幼いながらも自身の立場を理解し、家臣とともに政治を行っていた。将軍在位期間は、1713年4月から1716年4月までの約3年1か月。8歳で死んでいる…。
夭折した才能
家継は4歳で将軍になったため、政治は主に側近である新井白石と間部詮房が行っていた。
しかし、幼いながらも自身が「将軍」であることを理解しており、公家が謁見に来たときも、相手は深々と頭を下げていたのに対して、家継は会釈のみして見送ったという逸話がある。
子供ながら立派な将軍であったようだ。
将軍も子供だった…
側近の一人である間部詮房を父のように慕っていた家継。間部が用事で出ていたときは玄関で出迎え、帰って来るや喜んで抱きついたというエピソードがある。
だが間部は教育のため、家継に対して厳しく接していた。わがままで泣いていたときは「間部がくる」といっただけで泣き止んだとか…。そのくらい怖い存在でもあったのだ。
家継がやはり子供だったことがわかる逸話である。
第8代将軍:徳川吉宗(とくがわよしむね)
紀州藩藩主・徳川光貞の実子(四男)であり、初代将軍・家康の曾孫にあたる。
もともとは紀州藩の藩主(五代目)であったが、先代将軍・家継がわずか8歳で早世したことにより、将軍に就任した。
ご存知「暴れん坊将軍」のモデルで、「享保の改革」を行った。テストに出るやつ。将軍在位期間は、1716年8月から1745年9月までの29年1か月。六代・七代将軍が5年以下だったので、久しぶりの20年超え!
享保の改革
吉宗は五代将軍・綱吉の考えに共感していたようで、間部詮房らが行った六代・七代将軍の政策には否定的だったとされている。
ただし全てを否定しているわけでなく、また綱吉さん最高!ってわけでもなく、鷹狩を復活させたり、犬の過剰保護をしたりもせず、バランスを取りながら政治を行っていた。
また、目安箱を設置したり町火消を設立したりと、江戸の治安維持にも努めた。
過剰な節制や増税に不満爆発?
テレビなどでは名君として紹介されることの多い吉宗。
しかし、幕府内に倹約を命じるだけでなく、庶民にも倹約を強いたり、年貢の増税も行ったことで一揆が頻繁。庶民の不満は溜まっていたようである。
幕府の財政がヤバいことになってきてることを考えるとしょうがないといえばしょうがないが、自分が農民だったらムカついてるな。
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第9代将軍:徳川家重(とくがわいえしげ)
吉宗の実子(長男)であるが、病気持ち(脳性麻痺)で言語障害を患っていた。側近の大岡忠光が家重の言葉を理解し、政治を回していたとされている。
将軍在位期間は1745年11月から1760年5月までの約14年6か月である。重病であったことを考えると、在位期間は長め。なんともいえない顔をしている。
なんというマセガキ
幼少期より大奥に入り浸ってはお酒を飲んでいたといわれている家重。その影響で健康を害し、脳性麻痺を発生したとされている。なんというマセガキだ。いや、マセガキっていう問題で済んでないんだけど…。
アテトーゼタイプの脳障害の症状である歯ぎしりもあり、歯もすり減っていた。もうなんかボロボロの将軍である。
良くも悪くも遺産でしのいだ将軍
こんな感じなので当然ながら将軍としての評価は低く、常に側近に助けられて政治を行っていた。
また、先代将軍・吉宗の政治をそのまま受け継いでいたため、庶民の不満がさらに高まり、一揆も各地で起こっていた。
とはいえ、吉宗の遺産や側近のおかげで、大きなやらかしもなく将軍職をまっとうした。また、側近の能力が高かったことから、人材登用の才能があったと評価する声もある。
第10代将軍:徳川家治(とくがわいえはる)
九代将軍・家重の実子であるが、家重に障害があるため、実際の教育は八代将軍・吉宗が行っていた。歴代トップクラスの文武の才があるといわれていたが、そういう人ってだいたい難しいよね。
将軍在位期間は、1760年5月から1786年9月までの約26年4か月。
やる気スイッチが見当たらない「無能家」
八代将軍・吉宗からガッツリ帝王学を学んでおり、将軍家随一の文武の才を持っていたといわれている。
ただし政治に関する資料は少なく、始めは老中と一緒に行っていたものの、次第に任せきりになり、趣味に没頭していったという。
一説によると、吉宗の死や実子の早世により、政治に対してやる気をなくしてしまったためといわれている。残念。。
気配りのできる人情家
家治には、人を思いやる人情家としてのエピソードも残っている。
家治は朝6時に起きることになっていたが、年齢を重ねるとそれより早く目が覚めることが多くなった。しかし小姓たちを起こすまいと、布団の中で起床時間を待っていたとか。
また、雨の日に家臣が空を見上げてため息をついているのを見た家治は、別の家臣から「彼の家は貧乏で屋根から雨漏りがするから、親が苦しい思いをしている」という事情を聞いた。
そこで家治は、ため息をついていた家臣を呼び、「孝を尽くしなさい」と言って100両を渡した。
政治にやる気を出してくれたら名君になれたかも…。
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第11代将軍:徳川家斉(とくがわいえなり)
御三卿である一橋家の当主・徳川治済の実子(長男)であり、寛政の改革などに携わった。
徳川将軍の中で最も子供を作った人物。将軍在位期間は、1787年4月から1837年4月までの約50年。なっっっが!!!
子宝に恵まれまくり
資料として分かっているだけでも、家斉の子は男26人・女27人の53人。その絶倫さが伺える。とんでもない。
自分の子を親族や有力大名に養子や嫁に出すことで一橋徳川家の血筋を強くし、権力を牛耳ろうとしたともいわれている。
ただ、家斉の子は早世が多かったため、血筋が絶えるのも早かったようである…。
意外なところで家斉の名残が…
家斉は子どもが多すぎたため、どこに嫁いだかが分からなくなってしまったこともあったようだ。
それを心配した嫁ぎ先が、赤く塗った門を立てた。ここにあなたのとこの娘さんが嫁ぎましたよ〜という目印である。
現在の東大の赤門もその名残というから面白い。
自分では何もせず?寛政の改革
家斉の寛政の改革は、老中・松平定信を中心に行われたとされおり、家斉自身はほとんど動いていなかったようである。
定信が飢饉に備えるために蔵を立てたり、株仲間や専売制を廃止するなどの政策を行ったものの、庶民にまで倹約が及び、政策は不評だった。結局、家斉は定信を罷免するが、改革の方針は引き継がれたようである。
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第12代将軍:徳川家慶(とくがわいえよし)
11第将軍・家斉の実子(次男)であり、人事登用や指導力には定評があった。
天保の改革を水野忠邦に任せたが、失敗したと見るやそれを諦め、すぐに次なる手を打ったことからも判断力の高さが伺える。
将軍在位期間は、1837年4月から1853年6月までの約16年2か月。
ちなみに、ペリーが来ちゃった19日後に死んでいる。
「そうせい様」と呼ばれた理由
家慶は将軍職を父・家斉から受け継ぐものの、実際の幕府の実権は大御所となった家斉が握ったままだった。
そのため、家臣には「そうせい(そうしなさい)」としか言えず、「そうせい様」という残念なあだ名が付けられた。つらい。
天保の改革失敗。ただでは転ばず
家慶が将軍だった時代は「天保」であり、この時期は飢饉や一揆・打ちこわしが頻繁していた。
老中の水野忠邦が主導して改革を行っていったが、金利の引き下げや貨幣の改鋳による貸し渋りやインフレ、株仲間の解散による市場の混乱などの失敗が相次いだ。
そこで家慶は、わずか2年で水野をクビにして、新たに阿部正弘を登用した。この超速人事は一定の評価を得ている。
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第13代将軍:徳川家定(とくがわいえさだ)
12代将軍・家慶の実子(四男)で、家慶の子の中で唯一成人した子ども。しかし病弱で、表舞台に立つことは少なかった。
将軍在位期間は、1853年11月から1858年7月までの約4年8か月。短い。
将軍の中で最低の評価?
家定は病気(脳性麻痺の可能性も)を患っており、言動も不安定だった。
そのため、政治はほぼすべてと言っていいほど家臣に任せており、会議中は庭を走り回ったり、豆で遊んでいたり、趣味のお菓子作りを行っていたりと、家臣からも残念な将軍と思われていた。そりゃそうだ。
しかし黒船来航後に、アメリカの外交官と謁見したときには毅然とした態度で振る舞い、また丁寧な挨拶を交わした。アメリカ外交官の評判は悪くなかったようだ。
死亡には陰謀説あり
家定は諸大名を集め、後見を家茂(14代将軍)にすると決めた。さらに一橋派の大名の処分も発表した。しかし、その翌日に死去している。
家定の死因については、コレラや持病の脚気の悪化が原因とされているが、死のタイミングから、一橋派の毒殺などの陰謀説もある。
もし陰謀だった場合、翌日に殺すって…バレバレじゃない…?
第14代将軍:徳川家茂(とくがわいえもち)
紀州藩藩主・徳川斉順の次男であり、13代将軍・家定の従弟にあたる。
13歳と若くして将軍に任命され、人望に厚く、時代が時代なら最高の将軍であったただろうと評価は非常に高い。歴代将軍の中で、唯一朝廷に将軍の辞意を表明した(天皇により取り下げ)。
将軍在位期間は、1858年10月から1866年7月までの約7年9か月。
自身の立ち位置を若くして理解
幼いころは自然を好んでおり、池の魚や飼っている鳥を可愛がることを楽しみにしていたが、将軍となってからは自分の楽しみを捨て、文武ともに才を発揮するだけでなく、「良い将軍」となるべく努力を重ねていた。
その姿を見て家臣は感激していたという。
だけど21歳で死んじゃったんだぜ…。
「徳川家、今日滅ぶ」
幕末の英雄の一人・勝海舟と交流があった。艦隊を指揮していた勝から軍艦のことを教わるとすぐに理解するなど、類稀なる才を見せていた。
勝は家茂を「もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を残したかもしれぬ」と評価しており、家茂が亡くなったことを聞いたときには「徳川家、今日滅ぶ」と日記に書き記したくらいだった。
晩年の勝は家茂の名前を聞くと、「お気の毒な人だった」と涙を浮かべていたという…。
江戸時代前半の安定期に将軍になってたらなあ…という人材。
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第15代将軍:徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
水戸藩藩主・徳川斉昭の実子(七男)であり、江戸幕府最後の将軍。
江戸城には唯一入っていない将軍でもある。戊辰戦争敗北で、江戸城無血開放を指示した。将軍在位期間は、1867年1月から1868年1月までの約1年。激短い。
最低の将軍?英雄?
鳥羽・伏見の戦いで、自身は大阪から江戸へ逃げ帰ったことで「敵前逃亡した」と非難され、新選組ファンに嫌われがち。
しかし、江戸などで発生した一揆や、自身が朝敵になったことで諸大名の寝返りがあり、大阪で勝利しても長期戦は必至。さらには朝廷をケンカを売ってはならないという水戸徳川家の教えもあったため、慶喜の行動はやむを得なかったという見解もある。
また、幕末の混乱に乗じて諸外国からの介入も考えられたため、あのタイミングでの大政奉還や江戸城無血開城を行ったことに対し、英断と評価する向きもある。
結果的には、慶喜が参戦していた場合に比べて内戦の規模は縮小できたため、近代日本に対する功績は大きいとする声も。
でもやっぱり新選組ファンには嫌われる慶喜。
将軍のあとは人生を謳歌
写真や碁、サイクリングなど、多くの趣味を持っていたとされる慶喜だったが、写真の腕前はとっても微妙だったようで、競技会に出展したものは落選が多かったようだ。つらい。
しかし、将軍職を退いてからの慶喜は生き生きしていたようである。
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悪口…?最後の将軍"徳川慶喜"は"豚一様"と呼ばれていた
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徳川将軍の在位ランキング!トップ3とワースト3は?
というわけで、在位とともに歴代の徳川将軍をご紹介してきた。
ここからは、徳川将軍の在位をランキング形式にしてみよう。
徳川将軍の在位ランキング・トップ3
- 1位:徳川家斉(11代将軍)…約50年
- 2位:徳川吉宗(8代将軍)…約29年1か月
- 3位:徳川家綱(4代将軍)…約28年9か月
在位1位は、超絶子だくさんの徳川家斉。約50年間に渡って日本のトップに君臨した。前世にどんないいことをしたらこうなるのだろう。
2位は吉宗。在位期間は約30年なので、家斉の3分の2くらい。3位の家綱も吉宗とほぼ変わらない。家斉がダントツすぎる。
徳川将軍の在位ランキング・ワースト3
- 1位:徳川慶喜(15代将軍)…約1年
- 2位:徳川家康(初代将軍)…約2年2か月
- 3位:徳川家継(7代将軍)…約3年1か月
家斉とは逆に、将軍在位期間が最も短かったのは慶喜。将軍になった1年後に大政奉還という恐るべきスケジュール。心労もスゴかっただろうなあ…と思ったら、慶喜は歴代の徳川将軍の中でも最も長生き! 77歳で亡くなっている。
ワースト2位は初代の家康さん。ワースト3位の家継は8歳で死んでいるので、在位が短いのにもいろいろあることがわかる…。
徳川将軍の雑学まとめ
今回は、徳川将軍15代の将軍在位期間ランキングとエピソードトリビアをご紹介してきた。
15人も将軍がいるといろんな人がいるもの。家斉のように子作りしまくり将軍から、若くして亡くなった将軍までさまざまだ。
教科書で覚えるのは一部の将軍だが、こうやってみると江戸時代っておもしろいですねえ〜。
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江戸時代の雑学まとめ44選!トリビア&豆知識を一覧にしました
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