徳川家康が天下統一を果たし、江戸幕府を開いたのが1603年。そこから1868年までの265年間に渡り、徳川家は国を治めていくことになる。近代へ向かって著しく発展を遂げていったこの時代に、興味をそそられる人は多いはずだ。
江戸幕府で任命された将軍は計15人…そのなかで特に長くリーダーを務めたのは誰なのか、気にならないだろうか。優れているかどうかの判断は難しいが、将軍を務めた年数は影響力のひとつの基準となる。
暴れん坊将軍の吉宗か? 最後の将軍、慶喜か? いやいや、どちらでもない。正解はある意味で快挙といえる記録を残したあの人だった!
【歴史雑学】徳川将軍の中で在位が一番長いのは徳川家斉
【雑学解説】政治に疎かった徳川家斉が励んだ仕事は…子作り!?
徳川将軍のなかで在位が1番長かったのは、11代目の徳川家斉だ。
その在位は1787年から1837年までの約50年。2位の吉宗が29年1ヶ月なので、20年以上の差をつけて断トツのトップだ! 江戸幕府265年の5分の1は家斉が治めたということになる。
しかし…在位の長さとは裏腹に「うん…知らん」と思った人が大半だろう。それもそのはず、家斉は歴史の授業などではほぼ触れられず、盛大にスルーされる将軍の一人である。
なぜかといえば、彼は政治的なことにはほぼノータッチだったからだ。15歳で将軍になった家斉に政治などできるはずもなく、政策のほとんどは家臣の松平定信によるものだったという。当時の有名な出来事に「寛政の改革」があるが、それに関してもほぼ定信の考えである。
え、じゃあ家斉は本当に名前だけの将軍だったということ? いやいや、彼は政治にこそ大して関わっていないが、将軍としての務めをちゃんと果たしていた。何をしていたか? 日夜子作りに励んでいたのである。
お家存続のため?53人の子どもを設けた家斉
家斉は在位の長さのほかにも大記録を残している。なんと17歳から55歳までの間、ほぼ毎年のように子を設け、男子26人、女子27人と、合計53人もの子宝に恵まれているのだ!
関係をもった女性は正室の広大院のほか、側室が24人、さらに大奥に住み込みで働いていた使用人にも手を出し、お気に入りが20人以上もいたというぞ…。
3人以上の子どもが同時に生まれた年などもあるので、1日に何度も違う女性と…? まさに夜の暴れん坊将軍だ。
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これだけを聞くとろくでもないように思えるが、家斉が子作りに励んでいたことには理由がある。徳川家を存続させていく責任があったからだ。
政治のことはよくわからないし、自分にできることといえば、家臣たちの働く幕府を維持していくことぐらい。つまり、彼の仕事は徳川家の跡取りを作ることだったのだ。
江戸時代は医療も発展しておらず、成人できずに死んでいく子どもの数も多かった。現に家斉の子どもも53人のうち27人は若くして亡くなっているという…。2分の1は大人になれず、さらに跡取りは男でないといけないわけだから、とにかく作りまくるしかない。
とはいえ、ほかの将軍たちと比べてもやはり異常な数である。お家存続の責任があったのは事実だが、無類の女好きだったこともまた間違いないだろう。
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家斉の盛んな子作りは、一橋家の勢力拡大のためという説も…
実は家斉はもともと、徳川家直系の人間ではなかった。先代の将軍、家治が跡取りに恵まれず、一橋家という大名家から、養子になったのが家斉だったのだ。
一橋家は御三卿(ごさんきょう)といって、いわゆる徳川家の分家のような存在。跡取りができなかった際の保険として、徳川家を名乗ることを許された家である。
そして運よく家斉が将軍に成り上がれたことは、一橋家にとっては願ってもないチャンスだった。これを受けて家斉の父、徳川治済(はるなり)は「よっしゃ! このまま一橋家の勢力を強めていくぞ!」と、家斉に子作りを促したという説があるのだ。
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家斉は父親には頭が上がらなかったらしく、治済を江戸城に呼び寄せ、将軍と同等の待遇を与えようとしたこともある。これを踏まえると、家斉の子作り三昧の日々は父親の企てだったと考えられなくもない…。
一方、真面目に政策を取り仕切っていた松平定信は、やりたい放題の家斉との間に確執が生まれ、すぐに失脚させられてしまう。
その後子どもが多かったことや、家斉が散財したことで幕府の財政はどんどん圧迫されていくことに。うーん、お家存続のために子作りに励んでいたとはいっても、やっぱり将軍としては無能なのではないか…?
【追加雑学】徳川家斉の人格者な一面
このままでは家斉が女性と関係をもつためだけに将軍になったみたいになってしまうので、少しフォローを入れておこう。
なんでも彼は王子の飛鳥山や隅田川など、桜の名所と呼ばれる場所に、春には決して足を運ばなかったという。理由は「将軍がそんなところに出向いては、通行止めなどで庶民の楽しみを奪ってしまう」というもの。
庶民のために、その時期しかできない花見を我慢するとは…思いやりに感服させられる。
また「自分は優れた将軍ではないからな!」などと、家臣の前で自らの無能さをネタにする寛容さも持ち合わせていたのだとか。
なるほど、政治の腕はからっきしダメでも、これだけ人の心がわかっていれば女性にもモテるわけである。
雑学まとめ
徳川家の11代将軍・家斉の在位は最長の50年、さらに53人もの子どもを作った子作りキングだった! うーん…すごい記録ではあるが、たしかに歴史の授業では触れにくい内容かもしれない。
ただ名ばかり将軍だったとしても、彼が50年もその座に居続けられたのは、やはり寛容な人柄が家臣に愛されていたからではないか。優秀な政治手腕はなくても、ある意味リーダーには適任の資質である。