「豚一(ぶたいち)」
豚丼かトンカツが出てくる店のような響きだが、これは店の名前ではなく、あだ名である。では、こんなあだ名で呼ばれるのは、どのような人物だろう?
ぽっちゃり? 鼻が上向き? 何にせよ、こんなあだ名で呼ばれるのってイジメじゃない?
なんとこれ、実はさる尊い方のあだ名なのである! その人物とは…!? 今回は、江戸幕府将軍「豚一様」についての雑学を解説していくぞ!
【歴史雑学】江戸幕府の将軍・徳川慶喜は「豚一様」と呼ばれていた
【雑学解説】豚が好きすぎて「豚一様」に
江戸時代までの日本人にとって、肉はさほど身近な食べ物ではなかった。
一応流通はしていたが、高級贈答品か滋養強壮の薬扱いだった。いずれにせよ、一般庶民が普段食べるものではない。当時は「魚があるのに、肉を食べるなんて変だし野蛮だよ!」という人が多かったので、肉好きの人はこっそり食べなければならなかった。
しかし、そんな世間の風当たりなどに構わず、ばくばく肉を食べまくる者もいた!
それが、幕末の肉食男子・徳川慶喜!
慶喜は肉のなかでも豚肉が好物で、薩摩の黒豚が大のお気に入りだった。「慶喜さんが欲しいって言うから黒豚あげてたんだけど、在庫なくなっちゃった…。でもまだ催促してくるんだよね…。」
「いや在庫もうないからって言ってんのに、ずーっとあれ食べたいって催促してくるの。あいつ話聞かなすぎだよ、マジどうにかなんない?」と、愚痴をこぼす薩摩側の文書が残っている。
そんな彼を揶揄してつけられたあだ名が「豚一様」! 慶喜は洋食も好きで、晩年にはパンと牛乳もよく食べたそうだ。
ちなみに、慶喜の父・斉昭(なりあき)は彦根藩の近江牛が大好きで、やっぱり息子と同じく「また牛ちょうだい!」と催促しすぎてうんざりされている…。はた迷惑な親子だな!
【追加雑学①】徳川最後の将軍・慶喜はハイカラ趣味
そして大政奉還後、明治の世になり、慶喜は32歳の若さで隠居生活に入る。自分の代で徳川の時代を終わらせてしまい、さぞ気落ちしただろう…。そう思いきや、「俺は自由だー! 金も暇もありあまってるから何でもやっちゃうぜ!」とばかりに文明開化を謳歌する!
そんな彼の、食の好み以外でも最先端を極めたハイカラ趣味がこちらだ!
サイクリング
慶喜は隠居して静岡に移住すると、前から気になっていた最新の乗り物・自転車を購入! 家臣を引き連れてサイクリングするのが日課になった。
ただし、自転車に乗るのは慶喜だけで、家臣はランニング! 当時の自転車はそこまでスピードが出ないものの、さすがにお供する家臣に悪いと思ったのか、全員に靴代を支給したらしい。
サイクリング中、すれ違った美人に見とれて看板に突っ込んだ…なんてお約束なエピソードもあったようだ。
カメラ
最初は日記がわりに、近所の風景や家族・知り合いを撮影していたが、晩年は雑誌掲載を夢見て芸術的な構図に挑戦! 当時人気の雑誌「華影」に何度も応募しているが、なかなか掲載にはこぎつけられなかった。
可愛がっていた弟の昭武(あきたけ)も写真が趣味で、仲良く兄弟で撮影に出かけることもしょっちゅう。兄弟そろって凝り性なため、現像も自分で行い、徹夜で暗室作業をすることもあったという。
ちなみに、曾孫・慶朝(よしとも)はプロのカメラマン! 彼は曽祖父・慶喜の作品を『将軍が撮った明治』として出版しているぞ!
油絵
武家のたしなみとして、もともとは日本画を習っていた慶喜。隠居後は西洋画に目覚め、絵師かつ写真家だった側近・中山仰山(なかやまぎょうざん)から油彩画を習っている。
ただ、さすがに元将軍とはいえ、西洋画材は入手が難しく、代用品でまかなわなければならないことも多かった。
また、慶喜の作画方法は独特で、複数のお手本からパーツを寄せ集めて1枚の絵を作るということをしていた。コピペの寄せ集めとでもいおうか、現代の感覚だとだいぶ著作権的に問題がありまくりなやり方だ!
そのため、細部の描き込みはとても丁寧で上手なのだが、陰影や遠近法が微妙にずれており、それがなんとも不思議な味わいを醸し出している。お気に入りのモチーフは橋だったようで、ほとんどの風景画に登場している。
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【追加雑学②】親しみ?悪口?歴代将軍のあだ名
さて、微妙なあだ名をつけられてしまった将軍は、慶喜だけではない! 「本当のことだけど嬉しくない…」あだ名をもっている歴代将軍を見てみよう!
左様(さよう)せい様
4代・家綱のあだ名。
家綱が将軍になったのはわずか11歳のとき。しかし、父・家光の頃からの優秀な側近や叔父の補佐により、成人するまで政権は安定していた。
だが、子供の頃から自分で決断を下す必要がなかった家綱は、なんでもかんでも「左様せい(そうしていいよ)」と家臣にまかせっきり!
成人しても仕事は一切せず、大好きな釣りや絵画にかまける家綱につけられたあだ名が、「左様せい様」だ!
「あいつ全然仕事しないよね」と下々の者にまで知れ渡っているなんて、だいぶヤバイのでは!?
犬将軍・犬公方(いぬくぼう)
「生類憐みの令」を出した5代・綱吉のあだ名。
綱吉には、徳松(とくまつ)という世継ぎがいたのだが、わずか5歳で亡くなってしまった。それ以来、一向に綱吉に子供は生まれず…。
見かねた綱吉の母・桂昌院(けいしょういん)が尊敬する僧に助けを求めると、「生き物を大事にすれば世継ぎに恵まれる」といわれた。母からこのアドバイスを伝えられた綱吉はさっそく、生類憐みの令を発布!
綱吉は戌年(いぬどし)生まれだったため、生き物のなかでも特に犬を愛護した。しかし、各地に犬小屋を建てて保護した犬のエサ代は、幕府の財政を圧迫! 犬を捨てたり傷つけた者は、容赦なく切腹や島流しにされてしまう…。
犬を溺愛するあまり横暴を繰り返す綱吉は、ついに怒った庶民から「犬将軍」と呼ばれるようになった!
動物愛護精神はいいことだが、死刑はさすがにやりすぎだぞ!
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米将軍
8代・吉宗のあだ名。
享保の改革を行った吉宗は、江戸時代の税の基本だった米に関する政策をいくつも打ち出している。米を収めることで参勤交代で江戸にいなければならない期間を短くする「上米(あげまい)の制」、豊作・不作にかかわらず年貢量は一定とする「定免法」、新田開発などだ。
そんな彼につけられたあだ名が「米将軍」! 「米」という字をばらして「八十八将軍」と呼ばれることもあった。
うーん、やってることは悪くないのだが、ちょっとせこい気がしなくもない…。
雑学まとめ
「豚一様」についての雑学、いかがだっただろうか。はたして慶喜は、自分に「豚一様」なんてあだ名がつけられていることを知っていたのだろうか? 知ったところで「俺が豚好きなのは本当だしね」とあっけらかんとしていそうだが…。
筆者的には、ちゃんと「様」をつけるあたりが当時の人は律儀だな~とほっこりしてしまった。
ちなみにこの親子、斉昭は37人・慶喜は24人と、とんでもない子だくさん! そっちの意味でも肉食だったんかい!
さらに、平均寿命が50歳そこそこだった時代に、斉昭は60歳・慶喜は76歳で亡くなっている。子だくさん・長生きの秘訣に肉好きが大きく関わってるのは間違いなさそうだ…。
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