歌舞伎町に代表される新宿は、日本有数の歓楽街として知られている。この新宿の地には、江戸時代、「内藤新宿」という甲州街道の宿場町が置かれていた。
表向きは宿場町としてにぎわった「内藤新宿」だが、裏の顔は色街としても賑わっていたのである。その痕跡は現在にも伝えられている。この記事では、江戸時代に誕生したかつての新宿のすがたについての雑学を紹介していく!
【歴史雑学】新宿は江戸時代に色街として誕生した
【雑学解説】現在に痕跡を残す江戸時代の色街
新宿は日本橋から数えて甲州街道に設けられた最初の宿場町である。新宿の地に宿場町が設けられたのは、浅草の商人たちが甲州街道の日本橋と高井戸のあいだに、新たに宿場を開きたいと幕府に願い出たことが発端となる。
幕府は浅草の商人たちに金を上納することを条件に許可を与えた。1699年、こうして新宿の地に宿場町が開設されたのである。宿場町の正式名称は「内藤新宿」。あらたに設けられたこの宿場町は、色街としても大いに繁栄したのである。
旅籠屋(はたごや)や茶屋(ちゃや)が軒を並べる「内藤新宿」は、幕府非公認の色街としても賑わった町だった。店には客をもてなす名目で、飯盛女(めしもりおんな)や茶屋女(ちゃやおんな)といった遊女(ゆうじょ)が在籍していたという。
だが、宿場町に遊女を置くことは、幕府に正式には認められていなかった。「内藤新宿」は幕府によって一時廃止されるが、約50年後、他の宿場町の財政悪化や各街道の通行量の増加などを理由に、ふたたび開かれることになった。
そして1923年に起こった関東大震災をきっかけに、以降、現在の街の原型ともいえる繁華街に生まれ変わっていった。
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【追加雑学①】現在にも残る江戸時代の色街、遊郭の跡
日本有数の繁華街として知られている新宿。なかでも全国的に有名なのが、歌舞伎町にある新宿2丁目界隈だろう。宿場町であり色街でもあった「内藤新宿」は、この2丁目界隈に存在していた。
江戸時代にあった色街は、北は靖国通り、南は新宿通りに挟まれた、周辺一帯に広がっていた。この近くにある成覚寺は、もともと遊郭で生まれた子供を捨てる「投げ込み寺」だったそうで、境内にはいまも供養塔が残されている。
さらに、境内には遊郭で亡くなった女性を弔うための墓石が設けられている。その墓石には「子供合埋碑」(こどもごうまいひ)と刻まれている。
「子供」と墓石に刻まれているのは、親元から身売りされた遊女のことで、当時、色街で働いていた女性の多くが、貧しい家の出身だったことに拠っている。
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【追加雑学②】宿場町では遊女の数には制限があった
色街といっても、そこにはやはり規律が存在する。遊女といえども自由に営業できたわけではないのだ。じつは色街は幕府によって宿場町全体で抱える、遊女の人数が決められていた。
幕府は当初「店1軒につき飯盛女は2人まで」とお触れを出したそうだが、時代がくだって、宿場町全体が抱える遊女の上限数を設定する決まりに変更した。
これに伴い「内藤新宿」の遊女の人数は、宿場全体で150人までと定められたという。参考までに書くと、他の宿場町では品川宿が500人、板橋宿・千住宿では150人までが上限とされたという。
雑学まとめ
以上、新宿の色街についての雑学をご紹介した。色街というと、人々が性を解放できる自由な場所とイメージしがちだが、当然のことながら、そこには幕府の厳しい監視の目が届いていたのである。
「内藤新宿」をはじめとする幕府非公認の色街は、じつは規制をおこなう幕府が黙認して発展していった色街と考えた方が自然のようである。約260年ものあいだ、徳川の世が長く続いた秘訣は、こうした庶民たちへの施政術に隠されているのかもしれない。