平安時代を代表する女流作家・清少納言。彼女が一条天皇の妃・定子に仕えて朝廷に勤めていたときに、感じた様々なことを書き記した「枕草子」は、日本最古のエッセイとも名高い。
博学で朝廷でも一目置かれていた清少納言の言葉は、豊かな表現力で記され、読んでいてなんとも心洗われる思いがする。彼女自身もきっと、雅な雰囲気の上品な女性だったに違いない…などといっていると、清少納言がとんでもない奇行をしたという噂が耳に入ってきた。
なんと彼女は、自分が女だと証明するために、人前で股間を丸出しにしたことがあるというのだ!
それはうらやましい! …ではなくて、一体何があったというのだろう? 清少納言は露出狂だったのか?
朝廷のお偉方とのやり取りでもひるまない強さを見せた彼女。真相に迫ってみると、この奇行の理由にも、持ち前のしたたかさを思い知らされることとなった! 今回はそんな、清少納言に関する雑学を紹介しよう。
【歴史雑学】清少納言は、女であることを証明する為に股間を丸出しにしたことがある
【雑学解説】清少納言は引退後、性別を勘違いされて殺されかけた
事件は1017年のこと。朝廷での勤めを終えた清少納言は尼として出家し、兄・清原致信(むねのぶ)のもとで暮らしていた。このとき、兄は源頼親と対立しており、あるとき頼親は暗殺者の一行を送り込んでくる。
致信の一家はこの一行によって斬殺されてしまい、このとき清少納言も殺されそうになってしまう。当時、このような謀殺の場面では女性は見逃されることが多かったが、そのときの彼女は男と勘違いされてしまったのだ。
頭を丸めている上、お坊さんの格好というとゆるりとした着物で、女性であっても体型がよくわからない。僧兵と勘違いされても仕方がない状況だったのだ。
この危機に扮した清少納言は、自身の身を守るためにとんでもない行動に出る。そう、股間を丸出しにして、自分が女性だということを一行に証明したのだ!
案の定「女は斬れぬ」といって、暗殺者たちは引き上げていったという。
…清少納言、なんとしたたかな女性なんだろう。しかし、命と一時の恥とを天秤にかければ、誰しも選びうる選択だったのかもしれない。
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【追加雑学①】清少納言の股間丸出しは史実ではない
と、ここまで清少納言の奇行についておもしろおかしく紹介してきたが、股間を丸出しにした逸話は実際のところ、史実ではない。鎌倉時代初期に成立した説話集『古事談』に載せられた説話のひとつで、まったくの作り話である。
…いくらしたたかな女性といえど、さすがにやりすぎだよね。作り話でちょっと安心したぞ。
実はこのほかにも『無名草子(むみょうぞうし)』『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』など、鎌倉時代の説話集には、出家したあとの清少納言をバカにするようなエピソードがちらほら登場する。
説話では「鬼形之法師」とその姿を称されることが多く、鬼のような形相で女性にはとても思えない風貌をしていたとされている。股間丸出しのくだりも、要は"女を捨てている"ということを表現したかったために考えられたものだ。
清少納言は鎌倉時代に生まれた女性蔑視の被害者
どうして鎌倉時代において清少納言がそこまで蔑まれたのかというと、日本ではこの時代に女性蔑視の風潮が生まれ始めたからだ。
鎌倉時代は武家政権の始まりで、社会における男性の力がこれまで以上に強まった時代である。そのため、平安時代に比べると女性の地位は弱くなっていた。
また、この時代から穢多(えた)や非人など、生まれから人と見なされない身分ができるなど、身分制度がより明確になっていったことも関係しているだろう。
このような時代背景から、「女なのに才能があるなんて」と、清少納言は妬みの対象になってしまったわけだ。
そんな理由でネタにするなんて、逆に才能があることを認めてしまっているし、むしろ滑稽だと思うのだが…。現代でいうと、有名人にアンチが湧く感覚に近いのかな。
また、同時期の作家・紫式部は自著の『紫式部日記』のなかで「枕草子ってよく見ると間違いも多いし、大したことないよね」などと酷評しており、このことも後世の人たちにバカにされる要素になっている。
【追加雑学②】実際のとこ、清少納言ってどんな性格?
清少納言といえば、やっぱり枕草子だ。枕草子は少納言が宮中で過ごした日々を思い起こし、書き綴ったエッセイ集。その文中には彼女がどんな性格をしていたかを物語る記述がたくさん登場するぞ。
たとえば、一番有名な「春はあけぼのやうやう白くなりゆく…」で始まる第一段は、「春夏秋冬、どの季節もそれぞれ味わいがあっていいよね!」という内容。
第四段の「三月三日は…」では「三月は桃の花が綺麗でいいよね。つぼみが膨らんだ様子に赴きがあって…でも早めに花が開いちゃってるやつは、ちょっと生き急いでる感じでウザいかも」みたいなことを言っている。
基本的に明るくて、些細なことに楽しみを見出せる人という感じだ。クスっと笑わせられる内容もあるし、清少納言がツイッターやったら人気アカウントになるだろうなー…なんて思わされる。
自慢話が多い
宮中の人たちとのやり取りも多く残されていて、印象的なのは「雪のいと高う降りたるを…」から始まる第二九九段。
外の雪の具合を尋ねてきた中宮定子(ちゅうぐうていし)に、漢詩の知識を活かして綺麗な景色を見せるくだりが登場し「定子さまに褒められた!」と喜んでいるのだ。
このほか、朝廷の男性たちと漢詩のやり取りで渡り合った話など、その博学っぷりを得意げに自慢している。いずれも嬉しそうに綴っているのが無邪気というか…。なんか憎めない。
腹黒いことも正直に書いちゃう
もうひとつ言うと、けっこう腹黒いことも堂々と書かれている。
有名なのは第二七〇段の「人の上言ふ腹立つ人こそ」。この段に書かれている内容は「人の悪口をいうなという人がいるけど、あれって本当に困るよね!」というものだ。
清少納言は「人の欠点ほど、話題にしたくなるものはないでしょう」という。そこに付け加えて「でも、いつも人の悪口ばかり言っていると、自分が嫌われてしまうから、仕方なく言わないようにしている」と綴られているのだ。
いつの時代も、人の悪口というのは話題になりやすい。あまり感心できることではないが、それも人間の習性なのだろう。赤裸々に本心を語っている清少納言は、きっと正直者なのだ。
実はシャイな部分も…
こんな感じで勝気に見える清少納言。しかし実は容姿には自信がなくて、それゆえシャイなところもある。
平安時代の美人の定義は"真っ直ぐな黒髪"である。しかし少納言はいわゆる天パで、牛の毛や人毛を使ったエクステを利用しているため「私のは地毛じゃないし…」と気にしているのだ。
横顔で描かれているものが多いのは、ブサイクだったからなどといわれることもある。しかしそれは彼女の見た目への自信のなさから、イメージで描かれたものなんじゃないか。
また朝廷でも最初から一目置かれていたわけではない。
勤め始めた初日には、それまで勤めに出た経験がなかったため、キャパオーバーで半泣きになったというエピソードもあるのだ。…なんか可愛くない?
「枕草子」は定子が没落していく日々で書かれたもの。…なのに明るい?
清少納言の性格を語るうえで、一番大切なのはこの部分である。そう、少納言が中宮定子に仕えていた日々というのは、定子が徐々に朝廷での地位を奪われ、没落していった時期なのだ。
990年、中宮定子が一条天皇の后となると、まもなく少納言も定子に仕える身となる。
そんな矢先、996年に定子の兄である藤原伊周(これちか)がスキャンダルを起こし、その流れで定子も宮中で除け者にされてしまうのだ。そこから1001年に定子が亡くなるまで小納言は仕え続けたが、宮中での扱いは辛辣なものだったに違いない。
それなのに…
枕草子の内容には、一切ネガティブな描写がないのだ。地位が危ぶまれていた定子のことも、ただただ素敵な人であることだけが書かれている。
なぜ、小納言は枕草子をそんな作品に仕上げたのか。それは枕草子が、なにより中宮定子に捧げた書物だったからだ。
一説によると、小納言が枕草子を書くにいたったきっかけは、定子が当時貴重だった紙を兄の伊周から賜り、「これでなんか書いてみてよ」と小納言に託したことからだったという。
つまり小納言は定子のために枕草子を綴った。そして定子がどんな立場に立たされようとも、「自分が彼女に仕えた日々は素晴らしいものだった」と伝える意志を貫いたのだ。
このように、枕草子に綴られた笑いの絶えない日々には、清少納言の底抜けの明るさと、強い信念が書き表されている。
雑学まとめ
今回は清少納言の驚きの雑学をご紹介した。
清少納言は生きるための手段として、股間を丸出しにするという驚愕の行為に出た。…というのは作り話だった。ただ宮中での立場をなくした定子を支えた彼女が、それぐらいしたたかな女性であることはたしかである。
ほんと、ちゃんと知ればとっても素敵な女性なんだよな~。
しかしこんな話を聞かされると、「清少納言といえば枕草子」ではなく、「清少納言といえば股間丸出し」になってしまいそうだ…。説話として残っているのは気の毒な話である。
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