時代劇などでよく見る「斬り捨て御免」。有無を言わさず斬り捨てる所業に眉をひそめることもしばしば。現代では物語を盛り上げるための演出の一つとして、多くの時代劇で用いられている。
実はこの「斬り捨て御免」、実際にはあまり行われることはなかったという。
というのも、「斬り捨て御免」と言って刀を抜いたら最後、その後のリスクが非常に大きいルールになっており、なかなか気軽に斬り捨てられるものでもなかったようだ。
人を斬って許されるためには、それにもまた厳しい取り決めがあったのだ!
今回は知られざる「斬り捨て御免」についての雑学をご紹介していこう!
【面白い雑学】"斬り捨て御免"には武士の厳しいルールがあった
【雑学解説】実はとっても厳しい「斬り捨て御免」のルール
戦国時代も終わりを告げ、徳川幕府が長期にわたって平安を治めた江戸時代中期。
当時も現世と同様に、殺人は重罪で死罪・お家断絶は免れなかった。しかし、まだまだ士農工商の格付けがある時代、武士のメンツを保ちたい江戸幕府は八代将軍徳川吉宗により「公事方御定書」71条に斬り捨て御免のルールを追加設定し、法律で武士の特権を保証した。
この法律は武士が耐え難い無礼を受けた場合の「無礼討ち」や「正当防衛」を認めるものであったが、それもあくまで名目上のこと。実際には厳重なルールが敷かれ、「正当な理由」を証明できなければ加害者は処罰を受けるよう定められていた。
斬り捨て御免によって人を斬った場合、まずは奉行所(ぶぎょうしょ。いまでいう役所)に「人を斬りました」という届け出を出さなければならない。そこで奉行に斬り捨て御免の正当性を主張し、証明されればお咎めなし、証明できなければ詮議(裁判)のうえ、打ち首・お家断絶となる。
ちなみにお家断絶とは身分・領地をはく奪されることである。家臣・家族も路頭に迷うため、身内にとっても非常に厳しい処分である。
正当性が証明されてもされなくても、届け出後は人を殺めたことを償うため、20日以上の自宅謹慎となり、刀も重要証拠として取り上げられる。
証明が難しい「斬り捨て御免」
「斬った相手に無礼があった」あるいは「正当防衛だった」場合のみ斬り捨て御免は有効だが、「無礼なことをされた証拠を出せ」というのは、たとえ本当に無礼があったとしても、かなりの難題だ。無礼とはそもそも態度のことなので、証拠といえば目撃者の証言くらいのものである。
たとえ目撃者がいたとしても「あれはしょうがないんじゃない?」と言われてしまえば、それまでである。
しかも無礼な行為に該当するためには「わざとぶつかってきた」など、あからさまな悪意がない限り認められない。証拠が必要なことを合わせて考えると、時代劇のように言いがかりを付けて斬り捨てるなどほぼ不可能だ。
また、ガチで証人を探そうとしても、謹慎中のため身動きがとれない。お家断絶を避けたい家中の者が証人探しに躍起になっていたこともあったようだ。証人が見つからないときには、詮議の結果を待たずして切腹してしまう者も多かったというくらい、「斬り捨て御免」のルールは厳しいものだったのである。
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【追加雑学①】ちゃんと謝った人を斬ってはいけない!
相手に無礼があったとしても、その人が謝った場合は切り捨て御免は適応されない。つまり「謝ったぐらいで許されるか!」はまかり通らず、謝ったぐらいで許されるのである。
本人が無礼だったことを認めたのなら、わざわざ傷つけるようなことをしなくてもいいというのは分かる。しかし逆に考えれば「謝ればいいや!」と考えて無礼を働くこともできるということだ。
【追加雑学②】最初から殺すつもりで斬るのもダメ!
切り捨て御免は、侍が正当防衛をするための制度である。つまり自分の身を守るため以上の攻撃をしてはならない。
「危害を加えられそうになったので斬った。しかし死んでしまった」はOK。「危害を加えられそうになったので斬った。むかついたからそのままトドメを刺した」はNGだ。
切捨御免は人を殺すための制度ではない。斬ることを許すのは、飽くまでもその人が身を守るためなのだ。
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【追加雑学③】ホントにあった「斬り捨て御免」
とはいえ、非常に厳しいルールの中でも実際に行われた斬り捨て御免もある。
宝永6年、旗本戸田内蔵助(とだくらのすけ)の行列の前を町人が横切ろうとしたため、これをお供のものが咎めると、町人は悪態をついて従わず、さらに強硬に咎めても、悪態をつくばかりで謝ろうともしなかった。
籠の中からその様子を見ていた戸田内蔵助は町人の無礼討ちを命じ、町人は斬り捨てられた。内蔵助は後日この件を届け出ているが、お咎めはなかった。
また、尾張藩家臣・朋飼佐平治(ともかいさへいじ)は雨傘をさして歩いているところ、町人と突き当たり、町人を咎めた。
町人は佐平治の咎めを無視して立ち去ろうとしたため、佐平治はこれを無礼とし斬り捨てようとしたが、刀を持たない町人を斬ることは不本意だと考え、町人に脇差を渡して果し合いの形を取ろうとした。
しかし、町人は脇差を持った途端に逃げだし、脇差を掲げ「佐平治を打ち負かした」と触れ回った。汚名を着せられた佐平治は武士の体面を守るため、血眼になって町人を探し出し、その家族ごと斬ってしまったという。
やはり斬り捨て御免が成立しているのは比較的お偉方であることが伺えるエピソードだが、斬り捨てされる方にも問題がある場合も多いようだ。しかし、このようなトラブルも江戸時代後期にはほとんど見られなくなったという。
「斬り捨て御免」の雑学まとめ
「斬り捨て御免」についての雑学をご紹介してきたが、いかがだっただろうか。
現代の価値観では切腹だろうが、打ち首だろうがあまり変わらないような気もするが、当時の武士にとっては切腹よりも打ち首の方が侮辱的とされ、嫌われていた。
そのため「斬り捨て御免」で取り逃がした場合は、実際に斬り捨てていない分、武士に配慮されているのか、切腹で済むといった格好だ。これでも十分に嫌だが…。
切捨御免には物騒なイメージがあったが、この制度は江戸時代の町に平和をもたらしていたのだ。実際、この制度ができてから殺人事件は一気に減ったという。
中には一生刀を抜いたことがない侍もいたそうだ。刀を下げているのは「俺は侍だぜ!」とアピールするためのもの。この時代には、ほとんどファッション的な意味合いしかなかったのだ。
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