日本の近代文学を代表する作家・夏目漱石。代表作の『坊っちゃん』や『こころ』は、特別本好きでなくてもみんな知っている。いわば国民的作家だ。
人間の業やエゴをえぐり出した作風が印象的な漱石。彼は晩年、神経衰弱・胃潰瘍・糖尿病…と、多岐に渡る病に苦しめられた経緯をもっており、その波乱の人生が作品に影響を与えたことは言わずもがなだろう。
そして漱石は、その死に際にしてもすこぶる壮絶だ。なんでも…周囲の人にとあるお願いをしたのだとか。「死ぬ前にうまいもん食いたい」とかそんなレベルじゃない。大文豪の死に際の願いはもっとぶっ飛んでいる。
漱石はいったいどんなお願いをしたのか…今回はそんな彼の死に様まつわる雑学を紹介しよう。
【面白い雑学】夏目漱石は死ぬ瞬間、水をかけられた
【雑学解説】夏目漱石は死に際まで情緒不安定?
1916年12月9日、夏目漱石は胃潰瘍を原因とする大量の腹部内出血を起こし、東京の自宅で執筆中にこの世を去った。
臨終の際、彼は胸もとを開きながら「死ぬと困るから、ここに水をかけてくれ!」と叫んだという。水をかけてどうにかなる問題ではないと思うが…藁をもすがる想いだったのだろう。
そして娘の愛子が泣くのを妻・鏡子がとがめたのを見て「いいよいいよ、もう泣いていいんだよ」と言ったのが最期の言葉だったのだとか。
この最期の言葉については、漱石の妻・鏡子が夫を回想した『漱石の思い出』や、次男の夏目伸六が回想した『父・夏目漱石』に記されている。
ただし異説もあって、門下生のなかには「頭に水をかけてくれ」と言ったとする者や、死に際にろくに食べ物を口にできなかったことから、葡萄酒を口に含んで「うまい」と感想を言って、世を去ったとする説なんかも…。
でも結局、奥さんや息子が言っている説が一番、信憑性あるよね。…なんかこんな言い方をしていいのかわからないが、どれにしても、叫んだり慰めたり忙しい人である。
それもそのはずで、漱石は現代医学の観点では、うつ病や統合失調症(変な妄想をしてしまう病気)の気があったことがわかっている。要はストレスに弱く、精神的にかなり不安定な人だったのだ。
何を隠そう、病気に悩まされた彼の晩年も、このストレス耐性のない性質が引き起こしたものである。ここからはその経緯を辿ってみよう。
イギリスでの人種差別・教え子の自殺をきっかけに精神を病んでいく漱石
漱石は若いころから神経質で、すぐに怒ったり落ち込んだりしてしまう性格だった。その性格の悪影響が顕著に現れだしたのが、1900年に文部省から留学を命じられ、イギリスで暮らし始めたころからだ。
彼は英文学研究のためにイギリスに留学することになったのだが、現地では人種差別に悩まされることになる。時代柄、イギリスの人たちも今ほどアジア人になじみはないだろうし、しょうがないことだったのかな…。
こういったことから漱石は、「日本人が英語を学ぶ意味などあるのか…?」と、葛藤を繰り返し、日に日に神経を弱らせていったのだという。
そして帰国してからも漱石は荒れに荒れた。家でもしょっちゅうキレるし、外でもすぐにケンカを始めるわで、家族も手を焼いていたのだとか。…完全に情緒不安定だ。
そうやって周囲に当たり散らした報いもやはりある。
あるとき、教鞭を取っていた東京帝国大学にて教え子が自殺してしまう事件が起きたのだ。なんでも漱石が厳しく叱責したことが、その一因になっていたのだという。これは神経質でなくてもキツイ…。
ストレス・甘いものの食べ過ぎが死因の大量出血につながる…
それからというもの、漱石の精神状態はさらに不安定になり、ストレスによって引き起こされた胃潰瘍の回数は生涯で5回以上にも渡る。
ちなみに彼がイギリス留学時代にストレスを紛らわせる方法として出会ったのが、甘いジャムを舐めることだったのだが、これがまた良くなかった…。
帰国後もその習慣は続き、漱石は海外から取り寄せたジャムをいつも瓶ごとすくって舐めていた。度が過ぎれば身体に悪いことは一目瞭然である。
案の定、この糖分の過剰摂取は胃酸の大量分泌を促し、胃潰瘍をさらに悪化させる原因になっていた。…おまけに糖尿病にもなっちゃうし、もういいとこなしだよね。
こういったことが重なり、1910年の伊豆・修善寺における療養生活では、なんと800ccもの吐血をし、危篤状態に陥っている。俗に「修善寺の大患」と呼ばれている事件だ。
なんでも意識を失っている30分のあいだに16本も注射を打ったと聞き、自分でも仰天したのだとか…。こんなボロボロの状態から6年も生きたのだから、49歳の早死にとはいえ、よく持ちこたえたものである。
…ストレスは溜めすぎるのもよくないし、解消の仕方も健康的な方法じゃないとダメだ。教訓として心得ておこう…。
おすすめ記事
-
加藤清正の持病は痔。松尾芭蕉、夏目漱石もだった…!
続きを見る
【追加雑学①】夏目漱石は死んでからも引っ張りだこ
漱石はその死後、鏡子夫人の意向で東大(帝大)附属病院にてその遺体を解剖されている。1911年に娘の雛子が亡くなった際、死因をはっきりさせなかったことに漱石は後悔していたといい、その意志を汲んでの解剖だったようだ。
漱石の場合は解剖せずとも死因ははっきりしているわけで、これはつまるところ、死後、医学の進歩に遺体を役立てることが、彼の一番の本望と思っての行動と取れる。
息子の伸六が伝え聞いたところによると、解剖には漱石門下生の小宮豊隆(こみやとよたか)が付き添い、「腹の中は真っ黒な血でかたまっていた」と語ったという。相当な出血量だったのだろうな…。
摘出された漱石の脳は現在もなお、東京大学医学部の標本室に保管されている。脳の重さは1425グラム。成人男性の脳の重さが1350~1500グラムが平均値なので、文豪だからといって特別でかいわけでもない。…そのぶんシワがめっちゃ多いとか?
また前出の『父・夏目漱石』によれば、解剖の際、漱石の胃も東大付属病院に保管されたとの記載がある。…生涯に5回以上も胃潰瘍を起こした胃というのも、ちょっと見てみたい気がする。
残念ながらどちらも一般公開はされていないが。
さらにいえば死の直後、漱石の門下生である森田草平(もりたそうへい)の発案で、漱石のデスマスクもとられている。…世紀の大文豪は死んでからも引っ張りだこである。
スポンサーリンク
【追加雑学②】夏目漱石は執筆の際に抜いた鼻毛を原稿用紙の上に並べていた
漱石のデビュー作『吾輩は猫である』には、主人公の苦沙弥(くしゃみ)先生が鼻毛を抜くシーンが登場する。
先生は妻の話を聞きながら悠然と鼻毛を抜き、それを原稿用紙の上に並べるのだ。…鼻毛処理はエチケットだが、原稿の上でするようなことではないぞ…。まあ、小説のなかの話だし…
…ではない。実はこの話は漱石の実際の癖が元になっているのだ!
漱石の門下生・内田百閒(うちだひゃっけん)のエッセー『漱石遺毛』にて、この鼻毛を原稿の上に並べるという、漱石の癖が明らかになっている。
ある時、漱石が書き損じた原稿をもらった百閒は、原稿用紙の上に不自然なものが付いていることに気付いたという。隅のほうに、ひょろひょろとした鼻毛が植え付けてあったのだ。
百閒はその計10本の鼻毛を大事にコレクションしている。ちょっと気持ち悪い気もするが、内田百閒は漱石を大変に尊敬した人物であり、生粋の漱石コレクターなのである。…でもやっぱり鼻毛はいらない。
所蔵した鼻毛には短いものや長いものなどさまざまで、おまけにその内の2本が金髪だったそうである。
……なんで金髪?
雑学まとめ
今回は夏目漱石の死に様と、その死因にまつわる雑学をいくつか紹介した。
漱石のその行動は、精神の不安定さもあってか、いつも普通の人とはちょっと違う。というか、普通の人と感性が大きく違うからこそ、あれだけおもしろい作品をたくさん残せたのではないか。
晩年の壮絶な闘病生活も、ある意味、執筆の原動力になっていたといえる。そんな自身の人生を反映した漱石の作品は、やはり時代が変わっても不屈の名作である。
読んだことがないという人も、この機会にぜひ!