大みそかになると、多くのお寺でつかれるのが除夜の鐘だ。この除夜の鐘には、108もある人間の煩悩を祓(はら)う力があるといわれている。
さて、除夜の鐘で祓われる煩悩は、どうして108個もあるのだろうか? 実は煩悩には内訳があり、その合計が108個になっているのだ。
それでは、どのような煩悩があるのか? 今回の雑学は、知っているようで知らない煩悩について解説していこう。
【生活雑学】除夜の鐘でおなじみ「108の煩悩」には内訳がある
【雑学解説】六根(ろっこん)で考える煩悩の内訳
「六根」というのは、仏教の考え方で、「眼・耳・鼻・舌・身・意」という人間の体と心を表した言葉だ。この六根が、煩悩の土台となっている。
六根が働くことで、六塵(ろくじん)というものが生まれる。それぞれ六根に対応するもので、「色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(しょく)・法」で構成されている。
六塵はさらに「好(こう)・悪・平(へい)」という3つの感情に分類される。分かりやすく言うと、「好き・嫌い・どちらでもない」といった感情だ。
この3つの感情から、それぞれ「染(せん)・浄(じょう)」という2つの感情にまた分類される。こちらは「汚い感情・綺麗な感情」という風に解釈して良い。
そして、最終的にこの2つの感情が、それぞれ「過去・現在・未来」といった時間軸に分かれる。
これらそれぞれの感情を掛け合わせると、
六塵(6)×好・悪・平(3)×染・浄(2)×過去・現在・未来(3)=煩悩(108)
という計算になる。
ちなみに、「浄」の感情は「綺麗な感情」という意味なので、一見するとこれがなぜ煩悩に入るのか分からないかもしれない。
しかし、仏教のゴールは「ありとあらゆる迷いから解放されること」だ。それを踏まえると、「浄」の心も迷いを生み出す感情なのだろう。
【追加雑学①】十纏・九十八結(じってんくじゅうはっけつ)での内訳
煩悩の内訳は、六根説の他にもいくつかある。その1つが「十纏・九十八結」だ。
「十纏」というのは、人の心を縛り付ける10個の煩悩という意味である。その内訳は以下のものだ。
- 無慚(むざん):間違いをおかしても恥じることのないこと
- 無愧(むき):間違いをおかしても他人に何とも思わないこと
- 嫉(しつ):やきもちを妬くこと
- 慳(けん):ケチなこと
- 悔(け):後悔すること
- 眠(みん):良心が眠っていること
- 掉挙(じょうこ):落ち着きがないこと
- 惛沈(こんじん):気が滅入っていること
- 忿(ふん):思い通りにいかなくて怒ること
- 覆(ふく):悔い改めようとしないこと
そして、「九十八結」というのは、人間の根本にある煩悩のことだ。これは、修行をすることで断ち切るべき98個の煩悩が含まれている。
この十纏と九十八結を足し合わせると、煩悩の数である108個になるというわけだ。
個人的には、こちらの説もなかなか説得力のある説だと思う。六根説は時間も煩悩に含んでいたのに対し、こちらは感情や状態をメインにしたといったところか。
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【追加雑学②】四苦八苦でも煩悩の数になる
苦労するという意味で使われる「四苦八苦」も、煩悩の数になるというトリビアがあるので、こちらも紹介しよう。
そもそも「四苦八苦」というのは、仏教の考えにおいて、
- 生まれる苦しみ
- 老いる苦しみ
- 病気の苦しみ
- 死ぬ苦しみ
という4つの苦しみと、
- 愛別離苦(あいべつりく=愛する存在と別れる苦しみ)
- 怨憎会苦(おんぞうえく=嫌いなものと会う苦しみ)
- 求不得苦(ぐふとくく=欲しいものが手に入らない苦しみ)
- 五蘊盛苦(ごうんじょうく=心身の苦痛が盛んになる苦しみ)
という4つの苦しみを合わせた言葉だ。
「四苦八苦」が煩悩にどうつながるのかというと、「四苦八苦」を「4989」という数字に置き換えて、
4×9+8×9=108
という計算になる。
六根説や十纏・九十八結説は、とても納得のいく説となっているが、四苦八苦説は単なる言葉遊びと思えるかもしれない。
しかし、四苦八苦という言葉は、仏教における苦しみから由来する言葉だ。苦しみから迷いが生じて、結果的に煩悩につながるだろう。四苦八苦説はユニークな説だ。
【追加雑学③】「煩悩」って何?
煩悩とは仏教で「私たちを苦しめる心」のことをいう。つまり他人からもたらされる苦しみではなく、自分の心に起因する苦しみのことである。その苦しみを数えると108もあるというのだから、生きていること自体が苦しみだとはよくいったものだ。
ここでは108ある煩悩のなかで、最上級に厄介な「三毒」と呼ばれるものを紹介しておこう。
貪欲(どんよく)
十分に持っているのに、それ以上を望んでしまう煩悩。たとえばサラリーマンで普通に暮らしていけるだけの収入はあるものの、「もっと贅沢な暮らしをしたい!」と望むような感じだろうか。
向上心をもつのは良いことだろうが、現状、普通に暮らせていることも当たり前ではない。そのことへの感謝も忘れてはいけないということだ。
「瞋恚(しんい)」
欲の心が妨げられることで芽生える「怒り」の煩悩が瞋恚だ。「彼氏がメールをくれない」「給料を上げてくれない」…これらは考えてみれば自分で決められることではないので、怒ったってどうしようもないのである。
「愚痴(ぐち)」
これは三毒のなかでも一番なじみ深い煩悩だろう。人は不満を感じるとついつい愚痴を言ってしまうものだが、そのベースになっているのは恨みや妬みの感情だ。つまり愚痴が飛び交う環境に身を置き続けると、マイナスの言葉を浴び続けることになる。
自分が言っても他人が言っても、度が過ぎると心が荒んで行ってしまうぞ!
煩悩の内容を見ていると、たしかに身に覚えのあるものばかりだ…。人間は生きている間、絶えず自分の心に苦しめられているのである。
【追加雑学④】煩悩は解消できるのか?
三毒の例を見ても、煩悩を解消するのは生半可なものではないことがわかる。またお釈迦様は人間を「煩悩具足」と表しており、これは「煩悩を取ったら人間でなくなる」という意味だ。
つまり人間はやはり、煩悩に苦しみながら生きていくほかないわけである…。たしかに、何ひとつ欠点のない人間なんていたら気味が悪い。
そしてお釈迦様は「煩悩即菩薩」…つまり「煩悩を喜びに変えよ」とも言っている。つまり煩悩を楽しめということだ。
考えてみれば未熟な部分があるから、改善していこうと人は頑張れるのである。何も直すところのない人生なんて、逆につまらないのではないか。
除夜の鐘を動画で見てみよう
様々な煩悩を打ち払う除夜の鐘。煩悩に関する雑学を見たうえで、聞いてみるとまた違って聞こえるのではないだろうか?
雑学まとめ
今回の雑学では煩悩について紹介してきたが、いかがだっただろうか。108の煩悩には、きちんと内訳があった。特によく言われているのが、六根…私たちの体や心を土台にした説だ。そこから生じる様々な感情が、煩悩の中に入っている。
他にも様々な説があるが、今回紹介した2つが感情や状態のことであるのに対して、六根説は感情だけでなく時間も含まれているという違いがあることに気づく。
六根説は、「過去・現在・未来関係なく、人間にはいつも煩悩が付きまとっているものだ」というメッセージなのかもしれない。
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