江戸時代に日本全国を歩きまわり、精密な日本地図を作成した「伊能忠敬(いのうただたか)」。彼が測量を始めたのは、なんと50代に入ってからというから驚きだ。その偉業には、事を始めるのに年齢は関係ないということを教えられる。
ところで彼が全国を測量してまわるにあたって、一体どのぐらいの歩数を歩いたのか、気にならないだろうか? そこでこの記事では、伊能忠敬が全国を歩いた歩数についての雑学をご紹介する。
その数を辿ると同時に、測量に費やされたとてつもない労力を知ることとなるぞ!
【歴史雑学】江戸時代に日本地図を書いた伊能忠敬の歩いた歩数は?
【雑学解説】伊能忠敬が測量を開始した年齢はなんと50歳!
17年の歳月をかけて、日本全国を測量してまわった伊能忠敬。彼が歩いた距離は、ほぼ地球1周分の3.5万キロにも及ぶという。そして、その総歩数は、約5000万歩を数えた。
そもそも忠敬が何者だったかというと、家業の米穀の集荷業、河岸問屋として生計をたてる、一介の商人に過ぎなかった。そんな忠敬が測量を始めたのは、地球の大きさに関心をもったからである。
49歳のとき、家業を長男の影隆(かげたか)に譲ると、以前から強い関心のあった暦学や天文学を学び始めた。そして、暦学者の間で「地球の大きさ」が問題になっていたことを知ると、自らその大きさを測るために、自宅周辺の測量をおこなったのだ。
しかし、その測量方法では正確な数値を算出できないことから、全国を測量する旅を思い描くにようになる。50歳に差し掛かろうというその年頃にして、まるで夢を追い掛ける少年のような気持ちをもっていたのだ!
そして忠敬は55歳になると、幕府からの依頼によって初めて測量をおこない、以後、17年間にわたって全国をまわった。その総距離は、ほぼ地球1周分の3.5万キロ、総歩数は約5000万歩にのぼった。実に驚異的な数字である!
スポンサーリンク
【追加雑学①】忠敬はどんな測量用具を使った?
ところで、忠敬はいったいどんな道具を使って距離を測定していたのだろうか。
まず、最も基本的な測量方法が「歩測(ほそく)」である。歩測とは、読んで字のごとく歩いた歩数をもとに距離を計算する方法で、彼が最初に測量したとされる「蝦夷(えぞ)」においても採用された。
ちなみに忠敬の歩幅は、約69センチだったといわれている。歩幅にバラツキが出ないものなのか、気になるところではあるが…。
そして第二次測量から採用されたのが「間縄(けんなわ)」と呼ばれる測量用の縄や、「鉄鎖」を使って距離を測る方法である。
間縄を例に挙げて説明すると、「梵天(ぼんてん)」と呼ばれる2つの竹の棒に、約1.8メートルごとの印を付けた間縄を巻き付けて、距離を測定していったという。
また、この方法によって測量できない場所では、量程車(りょうていしゃ)と呼ばれる測量車の車輪の回転数によって距離を測ったともいわれている。
忠敬は、こうした方法で全国を地道に測量してまわったのである。今のように機械に頼れるわけでもなく、そのほとんどが手作業ということにも驚かされる。
【追加雑学②】伊能忠敬が使用した測量器具は国宝に指定されている
伊能忠敬の測量方法は、先に記した通りである。ところで、その測量器具が、国宝に指定されていることをご存知だろうか。
2010年、伊能忠敬が作成した地図・測量の際に使用した器具・関係書類など、計2,345点が国宝に指定された。国宝に指定された理由は、「我が国の測量史・地図史上における極めて高い学術的価値を有する」というものだった。
国宝に指定された器具は、現在は千葉県香取市にある「伊能忠敬記念館」に保管されている。
なお、同県佐原市では、「忠敬橋(ちゅうけいばし)」という忠敬の名前が付けられた橋があるほか、原付のナンバープレートにも忠敬をもとにしたデザインが採用されているという。
千葉県で生まれ育った忠敬は、現在でも地元の偉人として親しまれているのである。
雑学まとめ
晩年になって、強い好奇心と探求心から新たな世界の扉を開いた、伊能忠敬についての雑学はいかがだっただろうか。地道な測量方法や、歩いた距離が地球一周分にもなることからも、その情熱は伝わってくる。
人間いくつになっても志と意欲さえあれば、大きな仕事を残すことができるのだ。その心意気は大いに見習うべきだろう。