五輪の歴史

原爆投下日が誕生日。最終聖火ランナーを務めた"アトミック・ボーイ"|オリンピック雑学

1964年東京オリンピックで最終聖火ランナーとなったのは「アトミック・ボーイ」という雑学

東京五輪の最終聖火ランナー・坂井義則の記念切手

2020年に開催される東京オリンピック。世界中の一流アスリートが集まるこの祭典を、今から楽しみにしている方も多いのではないだろうか。また東京オリンピックの最終聖火ランナーを誰がつとめるのかにも注目が集まる。

前回の東京オリンピックの最終聖火ランナーは、広島に原爆が投下された日に生まれた「アトミック・ボーイ」こと、坂井義則がつとめている。この記事では、1964年の東京オリンピックで、最終聖火ランナーをつとめた人物と、オリンピックの雑学についてご紹介していく。

【オリンピック雑学】1964年東京オリンピックで最終聖火ランナーとなったのは「アトミック・ボーイ」

1964年の東京オリンピックで、最終聖火ランナーとなったのは、広島に原爆が投下された8月6日に生まれた「アトミック・ボーイ」こと、坂井義則だった。

【雑学解説】青年は挫折の後に夢の舞台に立った。

華やかな演出が凝らされるオリンピックの開会式。その開会式で、誰が最終聖火ランナーを担当するかにいつも注目が集まる。1964年の東京オリンピックでは、広島に原子爆弾が投下された日に生まれた坂井義則(さかいよしのり)が最終聖火ランナーをつとめた。

1945年8月6日に、広島県・三次市(みよしし)で生まれた坂井は、高校時代に国体で400メートル走の優勝に輝くなど、オリンピック出場を目指した陸上選手でもあった。

高校卒業後、早稲田大学に進学し、東京オリンピックの400メートルと1600メートルリレーの強化指定選手に選ばれている。彼自身もオリンピックの出場を目指したアスリートだった。

しかし、その後の日本選手権であえなく敗退し、オリンピック出場の道を絶たれてしまった。その時、彼の胸中にはどんな思いが去来したのだろう。

だが、坂井のもとに意外な知らせが舞い込む。東京オリンピック組織委員会は、「平和の祭典」や「戦後復興の象徴」とされる東京オリンピックの開催理念にあわせ、広島に原爆が投下された日に生まれた坂井に、最終聖火ランナーを依頼した。

オリンピックの開会式の当日、坂井は前走者の女性から聖火を受け取り、聖火台に火をつける大役を見事に果たした。この時、坂井は19歳で、10万713人目のランナーだった。

実際の東京オリンピックの開会式をご覧いただきたい。後半に、坂井が聖火台に火をつける映像が収録されている。

オリンピックの出場を絶たれた坂井は、最終聖火ランナーという形で、夢の舞台に立った。大役を果たした坂井を、国内外のメディアは「戦後復興の象徴『原爆の子』」・「原爆の日生まれ、世界に平和発進」・「アトミックボーイ(原爆の子)」と大々的に報道した。

なお坂井は、オリンピック終了後も陸上選手としても活躍し、1966年(昭和41年)に開催されたバンコクアジア大会で1600メートルリレーで優勝、同大会の400メートル走でも銀メダルを獲得した。

一度はオリンピックの出場が絶たれた坂井。だが、彼は「戦後復興の象徴」としてオリンピックの舞台に立った。彼の出自に立ち込める戦争の影は、オリンピックの舞台を通して、平和や希望の象徴として見なされ、人々に勇気を与えたのだ。

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【追加トリビア①】オリンピックに憧れ、オリンピックを追いかけた男の第2の人生。

アスリートの全盛期は非常に短い。現役を終えた後、彼らの第2の人生が幕をあける。1964年の東京オリンピックで最終聖火ランナーをつとめた坂井義則も例外ではなかった。彼のその後には、意外な経歴が隠されていた。

1968年、坂井は民間放送局・フジテレビに入社する。入社後は、スポーツやオリンピックの報道にたずさわり、1972年のミュンヘンオリンピックと1996年のアトランタオリンピックの取材もおこなっている。

アスリートとしてオリンピックの出場を目指した坂井は、今度はオリンピックを伝える側にまわったのだ。1972年のミュンヘンオリンピックでは、パレスチナゲリラによって選手村が襲撃された際、坂井は日本選手団のユニホームを借りて選手村に潜入し、現地から事件の詳細を伝えたという。

さすがアスリートのハートの強さ、彼は生死をかけた突入取材を敢行したのだ。また1981年から2006年まで開催されていた東京国際マラソンの関係者として、大会に招待する海外の有力選手の交渉も担当した。

坂井は生涯、1964年の東京オリンピックを「理想の五輪」と話していたそうである。しかし、2回目となる東京オリンピックの開催が決定した後、2014年に70歳でこの世を去った。

彼は2020年の東京オリンピックの開会式をどのような思いで観たのだろうか…。開会式の感想や前回の東京オリンピックとの印象の違いなどを、ぜひ人々のもとに届けてほしかった。

【追加トリビア②】名コーチのもとで能力を磨いた金の卵たち。

アスリートの育成に欠かせないのが、選手たちを指導するコーチの存在である。日本のオリンピックメダリストのなかにも、高橋尚子や有森裕子らを指導した小出義雄(こいでよしお)という名コーチの存在があった。

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坂井義則も例にもれない。彼が早稲田大学時代に指導を仰いだのが中村清である。1936年、早稲田大学に在学していた中村は、1000メートルと1500メートルで当時の日本記録を樹立するなどの実績を残した選手だった。

1936年のベルリンオリンピックでは、1500メートルの日本代表選手としても出場している。戦後、母校である早稲田大学競走部の監督に就任した。

その教え子のなかには、後に映画監督になった篠田正浩。そして、1964年東京オリンピックの最終聖火ランナーである坂井義則らがいた。

その後はエスビー食品陸上部の監督に就任し、2019年6月現在、日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダーをつとめる瀬古利彦や、1987年の世界陸上ローマ大会で優勝し、1988年のソウルオリンピックで銀メダルを獲得したダグラス・ワキウリらを指導する。

マラソンの解説者やスポーツ番組などで活躍する金哲彦(きんてつひこ)も彼の教え子のひとり。中村の指導方法は独特で、マラソンに関するデータ収集もさることながら、教育の一貫として仏教やキリスト教などを引用した説話なども取り入れていたという。

マラソンに生涯を捧げた中村だったが、日本人の教え子でオリンピックメダリストに輝いた選手はついに誕生しなかった。だが、素晴らしい選手を育てたコーチであることに変わりはない。

トリビアまとめ

東京オリンピックの最終聖火ランナーとなった坂井義則と、彼を指導した中村清の雑学をご紹介した。オリンピックは選手のみならず、大会を支えるスタッフやボランティアなどにも支えられている。

こうして見てくると、オリンピックを支える関係者や裏方の人々にもさまざまなドラマが隠されていることがわかった。2020年の東京オリンピックでは、誰が最終聖火ランナーをつとめ、どんなドラマが生まれるか、楽しみでならない。

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