オリンピックの閉会式。大会中の選手たちの活躍とは別に、最近では、開催国で有名な演出家たちによる素晴らしい演出も楽しみの1つである。
この華やかな閉会式。今では当たり前になってきているが、今のような「お祭り騒ぎ」の始まりは少年の1通の手紙であることを知っているだろうか。少年の手紙が世界を動かした? 信じられないって?
今回は、信じられないという人のために、オリンピック閉会式を変えた少年の手紙の雑学を紹介していくぞ。オリンピックの閉会式を思い浮かべながら、読んでいってほしい。
【オリンピック雑学】オリンピックの閉会式の「お祭り騒ぎ」のルーツは、少年の手紙
【雑学解説】17歳の少年の手紙がオリンピックに奇跡を起こした
今では当たり前の光景になっている閉会式のお祭り騒ぎ。
選手たちのリラックスした表情や、豪華ゲストによるエンターテイメントショーが楽しめる瞬間でもある。そんな閉会式での選手たちの自由入場は1964年の東京オリンピックからという認識が一般的だが、実はその前の1956年メルボルン大会で行われているのだ。
1956年のメルボルン大会が行われたころは、ハンガリー動乱やスエズ危機といった争いが起きる不穏な世界情勢だった。オリンピック中も敵対している国同士で試合があると、試合そっちのけで小競り合いから乱闘騒ぎにまで発展していく始末…。
緊張状態で試合が進められていくなか、中国系オーストリア人の17歳の少年から1通の手紙がオリンピック組織委員会に届いた。手紙にはイラストとともに、次のような内容が書かれていた。
「私は17歳になったばかりの中国人です。オリンピックの閉会式というクライマックスで、戦争・国籍・政治の全てを忘れて全員が1つの国になる。各チームが国ごとにバラバラに入場するのではなく、垣根を越えて全員が1つとなり入場することはできないでしょうか?」
はたして、少年の願いは聞き届けられたのか?
そして迎えたメルボルン大会の閉会式。奇跡はなんの前触れもなく起こった。
国籍・男女・人種関係なく全選手が混ざり合い、笑顔で行進したのである。少年の願いが採用され、この行進が平和・友好のメッセージとなったのだ。実に素晴らしいではないか。
このメルボルン大会以来、閉会式ではそれぞれの国の選手たちが混ざり合い行進するようになったというわけだ。
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【追加雑学①】メルボルン五輪から30年後に、手紙の差出人が判明する
メルボルン大会の閉会式での出来事。当然マスコミは、この素晴らしい提案者は誰なのかと探し出す。
少年はオリンピック組織員会に「自分の名前は明かしたくない」という手紙を送り、提案者の名前は世間には好評されなかった。ちなみに、少年は家族にまで自分が提案者ということをふせていたという。
手紙の差出人が判明したのは、メルボルン大会から30年後。シェーン・コーヒルという人物が1986年、オリンピックをテーマに論文を書いていた際、当時の組織委員長の資料から少年の手紙を見つけたことがきっかけである。
これで手紙の差出人が、当時17歳だった中国系オーストラリア人のジョン・ウィング少年だったと分かる。手紙の持ち主に関する記事が週刊誌に掲載されて24時間後からウィングさん探しが始まり、その翌日には居場所がオーストラリア中に知れ渡ったといわれている。
【追加雑学②】オリンピックの閉会式は今では一つのショー!
オリンピックの閉会式は、次回オリンピック開催国のプレゼンテーションの場でもある。そのため、次回開催国の代表的な演出家たちが試行錯誤を繰り返し、ちょっとしたショーのようになっている。
ちなみに2016年リオオリンピック閉会式でプレゼンテーションした国は、そう、我ら日本である。そのときの映像が次のものだ。
このときの「安倍マリオ」は海外メディアから高評価で、2020年の東京オリンピックへの期待が高まったともいえるだろう。日本もなかなかやるではないか。
雑学まとめ
今回の雑学で、現在のような友好的な閉会式は、17歳の1通の少年の手紙がきっかけだったということがわかった。
少年の提案を採用したオリンピック組織員会も素晴らしいが、何よりも実際に組織員会に手紙を出した少年の行動力が素晴らしいではないか。
実際に、手紙を送ったジョン・ウィングは世界の若者に向けて次のようなメッセージを送っている。
「不平不満の手紙を書くのをやめ、解決策を示そう」
まさに、そのとおり。若者だけでなくすべての世代の人たちが見習っていきたい言葉といえるだろう。
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