今回の雑学テーマは、日本のスポーツの発展に尽力し「日本の体育の父」と呼ばれた嘉納治五郎について。柔道の創始者として有名だが、日本におけるスポーツの道を切り開いた人物でもある。
日本のスポーツ史を語る上では欠かすことのできない大偉人だ。そして、治五郎はオリンピックにおいても欠かせない人物なのである。
【オリンピック雑学】嘉納治五郎は、東京オリンピック開催に尽力した
【雑学解説】アジア初のIOC委員・嘉納治五郎
オリンピックにはIOC(国際オリンピック委員会)という組織が存在している。嘉納治五郎はアジア初のIOC委員なのだ。
治五郎がIOCに入ったのは1909年。当時はアジアでオリンピックが開かれることはおろか、参加することすらなかった。
当時のIOC会長クーベルタンの要請によりIOC委員になった治五郎は、1912年のストックホルムオリンピックで日本を初めてオリンピックに参加させる。
当時の日本ではスポーツへの理解が薄く、「たかだか運動するために海外遠征なんて」と国も否定的だった。治五郎はそうした状況のなかで孤軍奮闘。私財を投げ出し、なんなら借金までして、オリンピックに向けた予選会を開いては選手を募った。
そうして選出した三島弥彦(みしまやひこ)と金栗四三(かなくりしそう)、2人の陸上選手を引き連れて、団長としてストックホルム大会に向かったのだ。
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その後もIOC委員として精力的に活動し、日本人選手をオリンピックに送り込む。治五郎の尽力により最初は薄かった国民の関心も徐々に高まり選手のレベルも上がっていき、だんだん治五郎と国民はこう思うようになった。
「日本でもオリンピックをしたい!」
しかし満州事変が起き、不穏な空気が漂っていた当時、日本でオリンピックを開くのは難しかった。それでも諦めず治五郎は東京オリンピック招致のために奔走する。
それまで欧米でしか開かれなかったオリンピックを、アジアで開くことには遠距離という理由からも難色を示すIOC委員も多かったが、遠いアジアでの開催こそがオリンピックを真に世界的な文化たらしめると治五郎は猛プッシュ。
彼の人徳もあり、1936年のIOC総会で1940年の東京オリンピック開催が決定したのだ。ところがその後も戦争は激しくなるばかり。IOCの中からもオリンピックなど開催している場合ではないという声が上がってきてしまう…。
治五郎はそんな声にもめげずに1938年、カイロで行われたIOC総会に出席。東京開催をまたも猛プッシュ。この総会で東京オリンピック、さらに札幌の冬季オリンピックの開催の招致に成功した。
そんな大きな土産をもって日本に帰る船の中で、治五郎は肺炎により死去してしまう。日本でのオリンピックを誰よりも望んだ彼だったが、彼が東京でオリンピックを見ることはなかったのだ。
その後、戦況はさらに悪化。治五郎が招致を成功させたふたつのオリンピックは日中戦争により返上せざるを得なくなってしまう。
ようやく日本の地でオリンピックが開催されるのは、それから20年以上経った1964年だ。
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【追加雑学①】嘉納治五郎と柔道
嘉納治五郎と聞いて「柔道」を思い浮かべる人は多いだろう。日本の武道のひとつでいまやオリンピックの人気競技でもあり、世界中で選手が育っている柔道。嘉納治五郎はそんな柔道の創始者だ。
実は、柔道の前身である柔術は護身術として昔から存在したのだ。学生時代の治五郎は成績優秀だが腕っ節が弱く、喧嘩では負けることが多かった。そこで柔術を習得しようとするのだが、当時は文明開化の時代。柔術は古臭い置物でしかなく、なかなかいい指導者に巡り合わない。
それでも諦めず柔術を始めた治五郎はメキメキと上達し、渋沢栄一の依頼でアメリカの大統領に披露するほどに。
治五郎は柔術を極めるかたわらで他にも様々な競技に挑戦するが、そのなかで柔術の素晴らしさに改めて確信をもつようになる。
治五郎にとって柔術は単なる体を鍛えるものだけではなく、精神の鍛錬にもなるスポーツだったのだ。
「素晴らしい柔術を広めたい」そんな思いをもった治五郎は、当時古臭いものとして下火だった柔術をもとに新たな武術をつくり、人々の心をつかもうとする。
新しいスポーツ柔道のために道場「講道館」を建て、段位制度をつくった。治五郎が新たにつくった柔道というスポーツは次第に人々の心をつかみ、広がっていったのだ。
心身を鍛える柔道を世界中に広めたいと願った治五郎。彼の思いは今なお受け継がれ、柔道は世界規模の大きなスポーツとして現代も楽しまれている。
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【追加雑学②】教育者としての嘉納治五郎
嘉納治五郎は、教育者としても偉人と呼ぶべき人物だ。
学習院大学の教員であっただけでなく、自ら塾を開いたり、現代の筑波大学や熊本大学の校長になったりと、輝かしい経歴をもつ。日本女子大学など複数の大学の創設にも関わった、まさに教育の面でも父と呼べるような偉人だ。
そんな治五郎は、学校教育に携わりながらも、スポーツの発展とスポーツの教育にも力を入れる。
1911年には大日本体育協会を設立し、日本でのスポーツの普及に尽力。自国の学生だけにとどまらず、中国からの留学生も大量に受け入れ彼らにもスポーツを教えている。数々の優秀な人材も見出した。日本初のオリンピックマラソンランナーである金栗四三もそのひとりだ。
治五郎にとってスポーツとは、単なる体の鍛練だけでなく、精神や道徳を高めるものであり、ひいては平和や幸福につながるものであると考えた。治五郎のもっていた理念はオリンピックに通ずるものがあったのだ。
雑学まとめ
今回の雑学では日本のオリンピック、そして日本のスポーツにおける大偉人、嘉納治五郎について紹介した。
嘉納治五郎は柔道の創始者であるだけでなく、日本を初めてオリンピックに参加させ、日本に初めてオリンピックをもたらした人物だ。この人なしに日本のオリンピックは語れない。
武術という古い価値観を取り入れつつ、西洋に流れるスポーツという文化を真っ先に受け入れ、日本を牽引した治五郎。
単なる「柔道のおっちゃん」かと思ったら大間違い。まさに文武両道ともいえる治五郎のすばらしいバランス感覚が、日本の教育とスポーツにもたらした影響は大きいだろう。