春日山城跡の上杉謙信像
戦国時代、毘沙門天の生まれ変わりと称され、戦の神と恐れられた武将がいた。その人物こそ、越後の虎として知られる上杉謙信だ。
その圧倒的なカリスマ性と戦場での見事な統率ぶりから、あの織田信長や武田信玄も恐れた、戦国最強の「戦場アーティスト」である。
だが、軍事の天才も病には勝てなかった。1578年、居城の春日山城で病に倒れ、息をひきとった。享年49。だが病に倒れたのは、軍神の名にふさわしくない残念な場所だった。
今回はカリスマ性溢れる上杉謙信の、驚きの雑学をご紹介しよう!
【歴史雑学】上杉謙信が死んだ場所は、まさかのトイレだった
【雑学解説】上杉謙信の最大の敵は、持病の高血圧
1578年、上杉謙信は春日山城内の厠(かわや。トイレのこと)で病に倒れた。死因は脳出血だったといわれる。
もともと無類の酒好きで、酒の肴には塩分が多い干物や梅干しなどを好んだという謙信。現在ならば、テレビで盛んに健康番組が放映され、否が応でも自分の健康が気になるが、戦国時代は当然、医学も発達しておらず、ましてやテレビなどない時代だ。
後世に軍神と称えられた謙信も、トイレで病に倒れるなど想像もしていなかったに違いない。おまけに謙信は短気な性格だったらしく、そのことが余計に高血圧に拍車をかけたとされる。
高血圧の人間にとって、トイレは危険な場所だ。謙信がどちらの用をたそうとしたのか定かではないが…
高血圧の人は便を出す際に力んで血圧が上がり、脳卒中で倒れるケースが少なくないという。
いわば上杉謙信の最大の敵は、天下を狙う織田信長でもなく、終生のライバルだった甲斐の虎・武田信玄でもなく、持病とされる高血圧だったのだ!
戦国最強のひとり、謙信の最大の敵が高血圧だったとは、ショックな人もいるかもしれない。いや、歴女からはむしろかわいいと言われるかもしれない…。
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【追加雑学①】「敵に塩を送る」の語源は、上杉謙信の行動に由来する
敵の弱みに乗じず、むしろ敵の苦境を救うことを、「敵に塩を送る」という。これは上杉謙信が、終生のライバル・武田信玄に塩を送ったとされる故事からきている。
甲斐国の武田信玄と隣国の今川氏真の関係が悪化した際、氏真は甲斐への塩の流通をストップさせた。甲斐は、陸地に囲まれた海なし国で、塩は他国から入手する道しか残されてなかった。
言うまでもなく、塩は人間の体を維持するために必要とされるミネラルの補給源だ。供給先を絶たれた信玄は、塩の調達に苦労したという。
そこに謙信が助け船を出した。謙信が越後の塩を信玄に送ったことから、「敵に塩を送る」という故事が生まれたのだ。
男気あふれるかっこいい逸話だ。だが、軍神の天敵だった相手に、これまた高血圧の天敵である塩を謙信が送るというのも、なんとも皮肉な話ではないか。
【追加雑学②】武田信玄と上杉謙信の子孫が川中島で勝負
雑学やトリビア好きな方ならご存じだろう。かつて「トリビアの泉」という番組があったことを。その番組内で、こんな企画が放映されたことがある。「川中島で、武田信玄と上杉謙信の子孫がオセロで勝負をするとどちらが勝つか」という内容だ。
なぜオセロだったか。それは史実の川中島での戦いがほぼ五分の勝負に終わったので、白黒ハッキリつける意味からオセロが選ばれたのである。対局は3番勝負で行われた。
3番勝負の1局目。武田家の子孫が相手のスキに乗じて1勝をあげると、つづく2局目、上杉家の子孫が武田方を圧倒し、初勝利をあげる。これで流れは一気にかたむき、3局目も上杉方が押し切った。
対局中、武田家の子孫の携帯電話が鳴るというハプニングがあったものの、歴史的な決戦は上杉家の2勝1敗で幕を閉じた。検証の結果はこう落ち着いたことになる。
「武田信玄と上杉謙信の子孫がオセロで白黒ハッキリつけるため、オセロで対決した時、勝つのは上杉謙信の子孫」と。
雑学まとめ
春日山城址
「上杉謙信の死んだ場所はトイレ」という雑学をみてきた。こうみると、謙信にはやたらに塩にまつわる逸話が多いことに気づく。
塩分の多い干魚や梅干しなどの酒の肴を好んでよく食べていたこと。そのために、高血圧の持病があったとされること。ライバルの信玄に塩を送ったとされる故事など、塩にまつわる話に事欠かない。
だが、そこは毘沙門天の化身こと上杉謙信。これほど塩にまつわるエピソードを持ちながらも、実際の戦場では、しょっぱい合戦はほとんどなかったようである。
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