オリンピックなどでマラソンは定番の陸上競技だが、その距離は42.195キロとかなり中途半端だ。
「なぜ42.195キロ? 42キロでいいんじゃない?」と思った人は多いことだろう。そもそもどういう基準でマラソンは42.195キロになったのだろうか。
今回の雑学では、マラソンの距離が42.195キロである理由を調べてみたぞ。「それで決まっちゃったの?!」とびっくりすること間違いなし!
ついでにマラソンで最も遅い記録も紹介させてほしい。おそらく誰にも破れないすごい記録が残っていたぞ!
【オリンピック雑学】マラソンの距離が42.195キロという半端な数字である理由
【雑学解説】マラソン距離が42.195キロである理由は、イギリス王妃のワガママ説が有力
マラソンという名前は「マラトンの戦い」が由来だといわれている。
マラトンに上陸したペルシャ軍をアテネ軍が破ったと、アテネの兵士が町まで伝令に走り、役目を果たした直後に息絶えたという逸話が残っており、その距離が約40キロだったそうだ。
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マラソンは第1回アテネオリンピックから競技種目として採用され、42.195キロに統一された第8回パリオリンピックまでは、だいたい40キロ前後を目安にしていたらしい。
しかし、最初に42.195キロの距離でマラソンが行われたのは、第4回ロンドンオリンピックだった。
当時のイギリス王妃アレクサンドラ・オブ・デンマークが「スタートはウィンザー城の庭で、ゴールは競技場の貴賓席から見たい」とワガママをいったらしいのだ。なんとまぁわかりやすい職権乱用。
本当はウィンザー城からシェファードブッシュ競技場までの26マイル(41.8429キロ)で行われるはずだったのだが、352.1メートル伸ばして結局42.195キロになった。この42.195キロを元に、第8回パリオリンピックで正式に統一したのである。
当時のオリンピック委員会が「ちょうどいいエピソードもできたし、42.195キロにしちゃう?」と決定したのか、「王妃の行動で42.195キロになったし、記念にそれで統一しちゃえば?」というイギリス王室のプレッシャーがあったのかは謎である。
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王妃のわがままで起きた「ドランドの悲劇」とは?
第1回のアテネオリンピックから第7回のアントワープオリンピックまでははっきり決まっていなかったマラソンの距離。これが正式に42.195kmに決められたのは、第8回のパリオリンピックからだ。
なぜ42.195kmがマラソンの公式距離に決まったのか。第4回ロンドンオリンピックでのマラソン競技で起きた、「ドランドの悲劇」があったからだという。
王妃アレクサンドラのひとことで、距離が26マイルから26マイル385ヤードに延長されたマラソン。このときのオリンピックで1位で競技場に入ってきたのがイタリア人のドランド・ピエトリだった。
だが彼は、競技場に入ってくる頃からすでに足はフラフラで、何度も倒れこんでしまう。そしてそのたびに係員に抱え上げられ、ラストの約350mに10分もかけながらやっとの思いで1位でゴールする。
しかし2位のアメリカがこれに異議を申し立てた。係員のヘルプでゴールしたんだから記録として認められないと。そしてこの異議申し立てが受理され、ドランドは失格となってしまった。これが、今も「ドランドの悲劇」として伝わる話だ。
もし王妃がわがままをいっていなかったら…。こんなに苦しい思いをすることもなく、1位を抹消されることもなかったような…。
ドランドの想いをたたえ…
そしてときは過ぎ、第8回パリオリンピック。いい加減マラソンの正式な距離を決めましょうということになり、ここで「ドランドの悲劇」が再注目されることに。
ロンドンオリンピックのマラソンで何度も倒れ、フラフラになりながらもゴールした姿が観客に大きな感動を与えたこと、そしてドランドの頑張りを無駄にしないために、という意味を込めて、ロンドンオリンピックでの42.195kmという距離が採用されたのである。
ロンドンオリンピックのマラソンで1位を抹消されたドランド。その後王妃アレクサンドラから銀のカップを特別に授与されたということだが…。いやいや! あなたのわがままがそもそもの原因でしょう! …とは誰も突っ込まなかったのだろうか…。
しかも、ドランドを支えた係員の中に、あのコナン・ドイルがいたらしい! コナン・ドイルはドランドにダンディな贈り物をしたというエピソードが残っている。
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【追加雑学①】マラソンの距離は大会ごとにバラバラだった
オリンピックでのマラソン競技は、第7回のアントワープオリンピック(1920年)までその距離には決まりがなかった。「およそ40kmの長距離」という規定だけで、大会ごとにバラバラだったのだ。
- 第1回アテネオリンピック(1896年)…36.75km
- 第2回パリオリンピック(1900年)…40.26km
- 第3回セントルイスオリンピック(1904年)…40km
- 第4回ロンドンオリンピック(1908年)…42.195km
- 第5回ストックホルムオリンピック(1912年)…40.2km
- 第6回ベルリンオリンピック(1916年)…第一次世界大戦のため中止
- 第7回アントワープオリンピック(1920年)…42.75km
いちばん短い距離が第1回アテネオリンピックの36.75km、いちばん長いのが第7回アントワープオリンピックの42.75km。6kmも差があるではないか! 長距離走が苦手な私にとっては、この6kmですら苦痛でしかない…。
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【追加雑学②】オリンピックのマラソンで最も遅い記録は54年
オリンピックのマラソンで最も遅い記録をもっているのは、実は日本人である金栗四三(かなくり しそう)選手だ。
1912年に金栗が出場したストックホルムオリンピックでは、レース当日は最高気温40度で、車が迎えに来ないので競技場まで走っていったこともあり、レース途中に日射病で倒れてしまった。
近隣の農家に助けられたが、目を覚ましたのはレース翌日だったのであきらめて帰国したらしい。しかし途中棄権したことがオリンピック委員会に伝わっておらず、「レース途中で失踪し行方不明」扱いになっていたことが後に判明したそうだ。
しかしせっかくなので、1967年のストックホルムオリンピック開催55周年の記念式典でゴールできることになり、54年8か月というオリンピックマラソン史上最も遅い記録が生まれた。この記録を破れるヤツはもう出てこないだろう。このあいだに孫が5人も生まれたらしいぞ。
こちらの動画は、逸話の流れをわかりやすくまとめたものだ。
https://youtu.be/Too-xDWEImM
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雑学まとめ
まさか王妃のワガママで伸びたマラソン距離がそのまま正式に採用されるとは…イギリス王室の恥をさらすような雑学だが、イギリス王室的にはOKなのだろうか。マラトンの戦いにちなんで、40キロで統一した方が良かった気がするぞ。
最も遅いマラソン記録が、ほぼ人生の半分ということにはびっくりだ。棄権扱いではなく、失踪して行方不明とは…時代を感じさせるぞ。人生の半分かけてマラソンをゴールする強者はもう現れないだろう。