1945年、第二次世界大戦の終戦を巡って、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連から地区を分割して管理されることになったドイツ。その結果、ソ連とそれ以外の国が目指した政治方針の違いが原因で、東西で分断されることになってしまう。
もとは外国からの干渉があって別れてしまった西ドイツと東ドイツだが、その対立は約40年にも及ぶ根深いものとなっていった。そしてオリンピックの参加を巡っても、争いの影響は顕著に出ていた。
今回の雑学では、そんな東西ドイツのオリンピック参加の歴史を辿ってみた。真相を読み解いていく中で、国同士の争いがいかに無益なものかということを、思い知らされることとなった。
【オリンピック雑学】東西ドイツとオリンピック参加の歴史とは?
【雑学解説】東西ドイツのオリンピック統一チームを結成。しかし…
1949年のこと、当時ドイツはすでに東西に分断されていた。そしてIOC(国際オリンピック委員会)はオリンピックの参加権を巡って、西ドイツの委員会を認める。対して、東ドイツの委員会は認めなかった。
IOCの基準では、委員会は各国で一つと定められていた。西と東で別の国家に分かれたといっても、IOCからするとどちらも同じドイツに変わりはなかったのだ。
また西側が、東側が承認されないようにと抵抗の意志を示すなど、オリンピックの参加権が両国の対立をさらに深めていくことになる。
見かねたIOCは、妥協案として1956年のメルボルンオリンピックより、東西の統一チームで参加することを提案したのだ。これによって64年までの3回の大会に、統一チームで出場。一見、参加権を巡る争いは丸く収まったかのように見えた。
しかし統一チームとは名ばかりで、団体種目において東西混合のチームで出場することはなかった。オリンピック参加前に東西で試合を行い、勝ったほうがオリンピックに参加できる…という仕組みだ。
統一チームと銘打って、こんな仕組みを採用していては、より対立が激しくなってしまうではないか…。とはいうものの、この仕組みも結局はトップが決めたもので、東西の選手間は決して険悪なムードではなかったという。
ただ東側には秘密警察の関係者が混じっており、西側とあまり親密にできない空気も流れていた。国家同士の争いに巻き込まれる選手たちもいい迷惑…といったところだろう。
1968年のオリンピックからは東西に分かれて出場
その後1965年には、東ドイツの国内委員会がIOCに承認される運びとなる。72年に東ドイツのミュンヘンでの大会が予定されていたことにより、西側もあからさまに反対することができなかった。
これより1990年のドイツ統一まで、約20年に渡り、東西ドイツは別々の国としてオリンピックに参加していくこととなる。ここまでの二国間の争いは、とても健全とは言い難い。
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【追加雑学】国家レベルでドーピングを行った東ドイツ
国内委員会が承認されてからというものの、東ドイツは世界相手に圧倒的な強さを誇った。68年~88年までの大会で獲得した金メダルは153個。
対する西ドイツは67個…同じチームとして戦っていたとはとても思えない差である。
実はこの強さの秘密は、国家レベルで行われていたドーピングプログラムにあったのだ。
当時の東ドイツでは、才能のある者は少年期から体育学校に移され、専門的な教育を受ける。このようなオリンピックに向けた徹底的な体制が取られていた。
体育学校に通う生徒たちは毎日、コーチが見ている目の前で、「経口トリナボール」という筋力増強剤を飲むことが義務付けられていたという。ちなみにこの薬は、他国では使用が禁止されている。
それをビタミン剤と偽り、生徒たちに常用させていたのだ。それだけではなく、体育学校では無理なトレーニングをさせることが度々あり、事故による怪我人も絶えなかったという。
「西に負けてたまるか」という執念からだろうか…反骨精神も歪んだ形で表れてしまったものだ…。90年にドイツが統一されると、健康被害の報告などにより、ドーピングの疑惑がもちあがってきた。ズルをすれば、いずれはしっぺ返しがくるものだ。
実際にオリンピックに出場していない選手も含め、このドーピングプログラムの被害者は、なんと1万人を超えていたという。
経口トリナボールは、男性ホルモンを増やし筋力を増強する薬だ。これによってホルモンバランスに異常をきたし、性転換を余儀なくされた女子選手までいる。この他にも糖尿病や心臓疾患など、後遺症に悩む人は多い。
彼らは国の見栄のため、人生を狂わされてしまった。何より、何も知らず必死にトレーニングを積んできたのだ。その功績にドーピングが絡んでいたことを知ったのが、被害者にとって一番辛いことではないだろうか。
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雑学まとめ
今回の雑学では、東西ドイツのオリンピック参加の歴史について迫ってみた。
ドイツが東西に分断されていた時代、オリンピックの参加を巡って、両国は何度となく争った。統一チームとは名ばかりで、その仕組みは両国の対立をさらに深めるようなもの。また東ドイツのドーピングに関しても、その対立が助長した部分は大きいだろう。
東西ドイツの争いの無益さを通して、やはりオリンピックは各国の親交を深めるための場、平和を願って開催されたことにも意義はあると、再認識させられる。
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