唐突だが、日本のお城のてっぺんに置かれた魚のようなオブジェを、みなさんも目にしたことがあるかもしれない。あれは「シャチホコ」といういわゆる城飾りだ。
しかも、数あるお城の中には「金鯱(きんしゃち)」と呼ばれる、その名のとおり素材の一部に金を使ったシャチホコも飾られている。
たとえば愛知県には、日本の100名城にも数えられる「名古屋城」がある。このお城のてっぺんに乗っているのが金鯱であり、これはかなり有名だ。
実際に名古屋城は「金鯱城」という別名で呼ばれることもある。ちなみに、このシャチホコのなかにはこうした「金」以外にも、瓦・石・木など多様な素材が使われているものがある。
当記事では、こうしたシャチホコに関するトリビアを題材にして記述するが、シャチホコ単体の話だけにとどまらず、みなさんも知っている有名な戦国大名たちの名も記事内には出てくるので、雑学として、気軽に読んでほしい。
【歴史雑学】お城の屋根のシャチホコは、元々はただの瓦だった
【雑学解説】最初は瓦、やがて木製のシャチホコも
日本でのシャチホコは、もともと仏閣や寺院の境内にある厨子(ずし:仏像や経典を中に納める仏具、じつは仏壇もこの厨子の一種)などに使われていた装飾物である。
そして、瓦製のシャチホコを最初に城の天守にのっけた人物、これはあの「織田信長」が最初といわれている。
しかも信長が天守にのせたのは、瓦に金箔を貼ったこれまた豪華な金鯱だった。金は当時でもやはり貴重なもので、これをあしらったシャチホコを掲げたものは、権力者そのものを表しているとさえいえたのだろう。
よって、ときの権力者として、信長は金のシャチホコを天守へ掲げたと推測が出来るのだ。なお、この瓦に金箔を貼ったシャチホコは「金箔押鯱瓦(きんぱくおししゃちがわら)」と呼ばれる。陶器製の瓦に金箔を貼りつけたもので、一般に金鯱とはこの金箔押鯱瓦を指している。
そして、この金のシャチホコを乗せた日本で最初の城が「安土城(あづちじょう)」ともいわれている。なお安土城は、信長が大名としてノリにのっているときに建てた城だ。
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歴史・城好きならともかく、そうではない人もこのお城の名前はうっすら聞き覚えがあるのではないだろうか。
こうして信長が発信源となり、他の大名・武将らも自身の城に瓦製のシャチホコを乗せることが普及したといわれている(天守以外には「櫓:やぐら」などにものせることがあった)。
しかし信長をマネて、金までをあしらう奇抜さや発想はなかったのか、ほとんどの城主はただの瓦製のシャチホコを屋根に乗せていた模様。
ただ、豊臣秀吉と徳川家康、のちの天下人であるこの二人は例外で「金シャチかっけー! 信長パイセンのマネしよう」といった感じで、同じくお城の屋根に金のシャチホコを乗せることとなる。
以上がざっくりとしたいきさつだが、秀吉はともかく家康の金鯱には変化が見られた。以下でその話も記述していこう。
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秀吉は信長と同じ瓦の金鯱
家康より先に、太閤殿下・秀吉の話に触れておくが、彼も信長と同じく、瓦の金鯱を大阪城の天守に飾った。なお、造りも安土城のものとほぼ同じとされている。
さらに余談として、秀吉は自ら以外に金を用いた瓦など、装飾物の使用を禁じたといわれている(例外はあったのかもしれないが)。
ここから筆者の推測も兼ねるのだが、貴重な金を使ったなにかしらの装飾を勝手に用いることは、自分にも権力があるのだという主張の裏付けになると考える。秀吉からすると「これやっていいの一番えらいオレだけね」といったところかもしれない。
もっとも、ただの城飾りとはいえ、シャチホコを含めたなにかしらの金細工を大ぴらに飾ることを、他の人間にも安易に許してしまった場合には、前述したとおり、これは秀吉と同じくらいの権力を自身ももっているという主張にもなりかねない。よって、ここから権威が分散する恐れもある。
そのため、秀吉がシャチホコを含めた瓦細工などに、金を用いることを禁じたといわれるのは、権威の分散を絶つための聡明さともいえるのかもしれない。
たしかに、秀吉は当時天下人として他の大名たちを圧倒する勢力を誇っていたが、その他の勢力がいつ自身をおびやかすか心配な面も多々あっただろう。
よって、ここに飾り物一つとっても扱いを慎重に取り決めざるを得ない、時代ならではの事情があったのかもしれないのだ。
やがて秀吉の時代が終わり、徳川家康が天下人となった時代がおとずれる。
家康も金鯱だが…
徳川家康が江戸城、そして名古屋城を築いた際、ここで瓦ではなく木製のシャチホコが城の屋根に登場したのだった。
しかし、ここで驚くべきことが。家康のシャチホコは、「金の板」を木造下地に貼り付けた、たいへんお金が掛かったシャチホコであった。
下地が木製というだけで、表面に金の板を貼り付けるのだから果たして「木製」か? という見方もあるのだが、実際にこの製法で造られたシャチホコは「金板張木造鯱」と呼ばれていて、れっきとした木造シャチホコだ。
なお、より一般的な木造のシャチホコだが、表面は金板ではなく銅板を使うのが主流であるとされていて、こちらは「銅板張木造鯱」とよばれている。
いずれも、金であることの共通点をのぞけば、信長が瓦のシャチホコを、家康が木造シャチホコをそれぞれ天守にかかげたことで知られるメジャーな人物たちなのだ。
【追加雑学①】シャチホコはただの飾りではない
そもそも、シャチホコを城の屋根に飾る目的としては諸説ある。権力の象徴、火災にたいしての魔除け、または避雷針として置かれるという話が存在するのだ。
たしかに避雷針がわりならば、シャチホコ自体の様式美だけではなく災害防止も兼ねているのだから、こちらはかなり実用的な話になる。
さらに万が一の火災時、シャチホコの口からは水を流せる構造になっていて、火を消せるようにしているという話もあるが、こちらはほかの話に比べ信憑性がイマイチだ(本当なら、まるでシンガポールのマーライオンさながらである)。
ちなみに、シャチホコを火災への魔除けとする見方だが、これはシャチホコがもともとは「インドの怪魚」をかたどって作ったという説から来たとされている。
この魔除けとしてのシャチホコのルーツだが、くわしくは次のトリビアにて。
【追加雑学②】モデルはインドのマカラ
魔除けとしてのシャチホコの出どころだが、インド神話にでてくる怪魚「マカラ」が、もとになったという説がある。
このマカラとは、水神ヴァルナというインドの神の乗り物であり、マカラ自身にも水を操る力があるとされるため、崇拝の対象にもされていて現地でも装飾などに用いられていたという。
もとが水に関わる神話の存在だからか、日本でも火災への魔除けとして飾られるようになったのは、ごく自然な流れだといえる。
ちなみに、マカラの見た目は象の鼻をもち、とぐろを巻いた体などの独特な特徴がある(類としてはイルカ・サメ・ワニの一種とされている)。
ここで少し話がずれるが、中国では屋根の装飾としてシャチホコに似た「鴟尾(しび)」というものも存在する。
よって、先のマカラが起源となり、中国の鴟尾を取り入れ、やがて日本へと渡ってきたのがシャチホコのルーツとされているのだ。
そして、先の仏閣や寺院のオブジェとして用いられるようになり、その後信長が城のてっぺんに飾るようになったものが、皆が知る現在のシャチホコである。
こうして神話の存在からはじまり、中国の文化をも吸収して日本に渡ってきたシャチホコは、他国の要素を併せもったハイブリットな存在といえるだろう。
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【追加雑学③】シャチホコの漢字
ちなみにこのシャチホコ。漢字表記で「鯱」と書くほか「鯱鉾」とも書かれる架空の生き物である(江戸時代の百科事典には魚虎と表記されているものもある)。
ここで、シャチホコの外見にも触れておこう。シャチホコは、頭の部分が虎(あるいは龍)そして体が魚で、尾の部分が天に向かって反りあがっている、かなり奇抜な見た目をしている。
なお、漢字表記の一つ「鯱鉾」の鉾(ほこ)とは、いわばヤリのような武器なのだが、おもに神具として用いられる側面もあった。
確証があまりない話だが、鉾が神具として使われることと、シャチホコが神話の生物をモチーフとしたことから、神事的な2文字があわさって鯱鉾の文字になったという見方もある。
さらにシャチホコは「二対」で一つの存在だ。しかも、オス・メスの両つがいということになっているのだが、このことは意外に知られていないかもしれない。
ついでに蛇足かもしれないが、シャチホコは哺乳類のシャチとは何も関係がないということも付け加えておこう(同じ漢字がつかわれているのは不思議だが)。
漢字も含め、これらの話はプチトリビアとして覚えておくと良いかもしれない。
雑学まとめ
シャチホコに関する雑学をご紹介したが、いかがだっただろうか。シャチホコの話もこうして掘り下げると、戦国の有名武将の話まで出てくるのだ。信長の話でもあったとおりだが、この時代のシャチホコは権力の象徴でもあり、あるいは災害防止の魔除けでもあったのだろう。
目的はどうあれ、お寺のオブジェからお城のてっぺんへと、天高いところへ飾られるようになったシャチホコ自身は、わりとご満悦ではないだろうかと思えてしまう。
そう考えると、こころなしかあのシャチホコ達がドヤ顔に見えてくるのは、筆者の勝手なイメージである。