世界一の過密都市といわれる東京。都内に住んでいる方は、出勤や帰宅の際、そのことを日々実感しているだろう。こうした東京の渋滞に関連して、ある都市伝説がささやかれているのをご存知だろうか。
それは、東京が渋滞しやすいのは徳川家康が作った道路のせいであるというものだ。この記事では、現代の東京でまことしやかにささやかれている、家康にまつわる都市伝説の真相に迫る。
【歴史雑学】東京が渋滞しやすいのは、徳川家康の作った道路のせい?
【雑学解説】5つの街道を江戸城の周辺に配した、家康の緻密な都市計画
東京で渋滞が起きるのは、何も人口や自動車の多さばかりが理由ではない。実はこの渋滞の原因を作ったのは、江戸幕府の創始者・徳川家康だといわれているのだ。
家康が江戸に入府したのは、1590年のことである。彼が江戸へ移ってきた理由は、秀吉が関東一円を支配していた北条氏を滅亡させたことにあった。
北条氏を討伐したことで、念願の天下統一を果たした秀吉は、家康の領地を「三河(みかわ)」・「遠江(とおとうみ)」・「駿河(するが)」などの東海地方から、北条氏の領土だった関東の地に移したのだ。
当時の江戸は湿地が多く、荒れ果てた土地で、とても後世に日本の首都となるような場所ではなかった。この国替えは、家康を恐れた秀吉がその国力を削ぐ狙いがあったのだ。
こうして苦汁を飲まされた家康にも、やがて天下を狙う絶好のチャンスがやって来る。秀吉亡き後、天下の行く末を占う「関ケ原の戦い」である。
家康はこの戦いで、西軍の石田三成を見事に破り、悲願の天下統一を果たした。そして1603年、江戸幕府を開いたのだ。
入り組んだ道路は敵から江戸の町を守るため
江戸幕府を開いた家康は、従来の町や自然の地形を生かして、江戸城を中心に「の」の字のような渦巻き状の都市計画を考案する。
それに留まらず、5つの街道(東海道・中山道・甲州道中・奥州道中・日光道中)が、江戸城と放射状に交わるような計画を練ったのである。
こちらの地図をご覧いただきたい。
江戸城の周辺が「の」の字のような渦巻き状の模様になっていることがわかるだろう。
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これは交通の利便性や経済の発展性を考慮したことはもとより、複雑に道路を組みあわせて、敵方から攻められにくいようにするためだった。たしかに城まで真っ直ぐな道が続いていれば、簡単に敵に攻め入られてしまう。
つまり家康のこうした都市計画によって、東京は直線道路が少なく、複雑に入り組んだ道路になったのである。これが原因で、約400年後の東京では、渋滞が発生しやすいといわれているのだ。しかしこれはあくまで都市伝説でささやかれている話である。
実際に東京にお住いの方はどのように感じるだろうか。その判断は、読者ひとりひとりにおまかせする。
【追加雑学】家康の生まれ故郷では、毎年「家康行列」と呼ばれるお祭りがおこなわれている
家康にまつわるトリビアをご紹介したので、現代でも家康が慕われていることにも触れておこう。家康の生まれ故郷である愛知県岡崎市では、「家康行列」と呼ばれるお祭りが開催されている。
このお祭りは、徳川四天王の一人「本多忠勝(ほんだただかつ)」を祀る、岡崎城内に鎮座する龍城神社(たつきじんじゃ)に起源がある行事だ。
この行事は、江戸時代に岡崎藩の武士たちが隊列を組んで、実践を想定した合戦の訓練をしたことが始まりとされる。戦後は一時中断したが、1953年に再び「家康まつり」として復活した。
祭りの見どころは、市内を練り歩く行列である。ちょっと古い映像になるが、以下に公式動画を紹介しておく!
2019年の行列では、愛知県警の音楽隊を先頭に、「ゆるキャラ」や「少年武者隊」、また家康をはじめ本多忠勝や井伊直政といった徳川四天王に扮した、計700名あまりの一行が市内を練り歩いた。
行進の途中には、鉄砲隊と槍隊による演武が披露されるほか、一行の目的地の乙川河川敷では、織田・徳川連合軍と武田家が激突した「長篠の戦い」も再現されたという。
戦国好きの人間にはたまらないお祭りではないだろうか。ちなみに祭りの当日は、一部の道路が通行規制されるという。さすが世を去っても家康は家康である(失礼!)。
雑学まとめ
いくら都市伝説とはいえ、東京の渋滞の原因が400年前の偉人にあるとは…なんだか死者を鞭打つようで申し訳ない気持ちになる。しかし逆にいえば、この都市伝説は、現代の東京が家康によって作られた証ともいえるのだ。
最後に失礼のないよう、「家康さん、ごめんなさい!」と謝っておく。