オリンピックの正式種目に採用された日本発祥の競技といえば、「柔道」を真っ先に思い浮かべる方が多いのではないだろうか。だが、オリンピックで採用された日本発祥の競技は「柔道」だけではない。「ケイリン」もそうである。
「ケイリン」はもともと、戦後、日本で開催された「競輪」がルーツになっている。今回の雑学記事では、オリンピックの正式種目に採用された「ケイリン」のもとになった「競輪」の歴史についてご紹介する。
【スポーツ雑学】「競輪」は日本で誕生した
【雑学解説】日本で生まれた「競輪」が「ケイリン」になるまで
2000年のシドニーオリンピックで正式種目に採用された「ケイリン(KEIRIN)」は、傾斜のついたすり鉢状のトラックを、選手が自転車で周回し、順位を争う競技である。
「ケイリン」は、読んで字のごとく「競輪」がもとになった日本を発祥とする競技だ。「競輪」が日本で初めて開催されたのは、戦後から3年ほど経った、1948年の福岡県北九州市小倉でのことだった。
この年、国会で自転車競技法が成立したことをきっかけに、同年11月に小倉競輪場にて「第1回小倉競輪競争」が開催された。日本初の「公営競輪」が開催された大会であり、「競輪」のルーツにあたる大会である。
それまで日本の自転車競技は、一般道をコースに指定した「ロードレース」が主流とされてきた。そのため、トラックを使用した「第1回小倉競輪競争」が開催された際は、約5万5千人の観衆が詰めかけ、大変な賑わいを見せたという。
「競輪」と「ケイリン」の違いについて
日本で生まれた「競輪」は「ケイリン」の名称のもとに、世界へ輸出されて国際種目に採用される。世界選手権はもとより、2000年のシドニー・オリンピックからは「ケイリン」として正式種目に採用された。今や自転車競技のなかでも屈指の人気種目になるまでに成長した。
「競輪」と「ケイリン」の違いは、名称だけではなく、競技に使用されるコースやルールにも違いが見られる。「競輪」のコースはコンクリートで舗装されているが、「ケイリン」では板製のコースが使用されている。
また1周あたりの競技が333〜500メートルなどの違いが見られる「競輪」に対して、「ケイリン」では一律250メートルに固定されている。
さらに選手が減速せずにカーブを曲がれるように付けられたトラックの傾斜は、「競輪」は約30度なのに対し、「ケイリン」は約45度に設定されているなどの違いもある。
それぞれのルールにも違いが見える。「競輪」と「ケイリン」はともに、レースの途中まで「誘導員」と呼ばれる、ペースメーカーのような役割をになう先導者がいる。
「競輪」では、その際に選手同士が協力し、隊列を組んで風の抵抗を防ぐ「ライン」と呼ばれる協力体制をとる場合があるが、「ケイリン」では、ポジション取りやかけひきをすべて個人の判断で行わなければならない。いわばガチンコ勝負なのである。
上の動画はオリンピックでの実際の競技の様子である。このような競技やルールの違いから、「競輪」と「ケイリン」とでは表記が異なっているのだ。ちなみに英語圏では、海外では「KEIRINは「キーイリン」と発音されているという。
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【追加雑学①】「競輪」が「けいりん」と呼ばれるようになったのはなぜ?
現在、競輪は「けいりん」という呼び方で定着しているが、かつては「きょうりん」または「きょうわ」と呼ばれていたことをご存知だろうか。それがある事件をきっかけに、現在の「競輪」と呼ばれるようになった。
1950年、現在の兵庫県西宮市で起こった「鳴尾事件(なるおじけん)」である。同年9月9日午後4時50分。鳴尾競輪場では距離2,000メートルで争われる第11レースが行われていた。
レース中に、オッズの高かった人気選手が再レースを行いたいと審判員に申し出たという。というのも、選手は自転車に付属するクランクピンの不備により、レースを一時中断していたからである。
だが、主催者側は選手の申し出を却下し、正式にレースが成立したことを場内に告げた。その際、選手の不手際によって1カ月の謹慎処分が科されることもあわせて発表された。
その判定に怒った観客が、レースのやり直しを求めて抗議の声を上げ、400~500名の観客がコースに乱入する騒ぎを起こした。観客の抗議は、車や施設に放火するなどしてエスカレートしていく。
最終的に、約5,000名が暴徒と化したとされる。騒動のさなか、警官が威嚇射撃を行った流れ弾が観客1人にあたり、死亡する最悪の事態も生じた。
結局、暴動は600名あまりの警察隊とアメリカ陸軍によって鎮圧されたが、約250名あまりの観客が逮捕される騒動となった。これが「鳴尾事件」のいきさつである。
それまで「きょうわ」「きょうりん」と発音していた「競輪」は、事件発生後に「狂輪(きょうりん)」や「恐輪(きょうわ)」と、世間やメディアに揶揄されるようになった。その悪いイメージを払拭するため、以後は「けいりん」に改められたというのだ。
事件後、世論の競輪廃止論の高まりもあって、一時、廃止の方向で閣議決定までされるに至ったが、最終的に2カ月ほど開催自粛の措置を取るかたちで、競輪の存続が決定した。現在の「競輪」の呼び名には、暗い歴史が秘められていたのである。
【追加雑学②】日本プロスポーツ選手史上、初の1億円プレーヤーとなった中野浩一
競輪界で、今も語り継がれる伝説的な日本人選手がいる。それが「世界選手権」で10連覇の偉業を成し遂げた、中野浩一だ。
福岡県久留米市出身の中野浩一は、県内の高校を卒業後、知人に勧められ日本競輪学校へ入学する。入学後、彼はめきめきと力をつけ、プロデビュー後はデビュー戦から18戦無敗の記録を作り、競輪選手としての実績を積み重ねていった。
そして1977年にベネズエラで開催された「世界自転車選手権」「プロ・スプリント競技」において、日本人初の金メダルを獲得する。これを皮切りに世界選手権10連覇という偉業を成し遂げた。ここで10連覇を成し遂げた際の本人の心境を聞いてみよう。
この偉業は、「同一競技世界選手権最多連覇」としてギネス記録にも認定されている。いわば彼は、世界に名の知れわたる自転車競技界におけるレジェンドなのだ。彼の凄さを伝えるエピソードをご紹介しよう。
1986年に開催された「世界選手権」でのことである。彼は大会前の練習中に転倒し、肺に骨が刺さるほどの重症を負ってしまう。大会への出場が絶望に思われたが、彼はケガを押して大会に出場し、200メートルで争われたタイムトライアルにおいて、見事に世界新記録で優勝を果たしたのである。
まさに常識を覆す超人だった。また中野は、日本プロスポーツ選手史上初の1億円プレーヤーでもあった。現在では、野球選手やサッカー選手など、1億円プレーヤーは珍しくはないが、彼はその大台を1980年に突破している。当時のプロ野球選手の平均年俸は600万円程度といわれている時代だ。
プロ野球界で初の1億円プレーヤーになった「落合博満選手」と「東尾修選手」が1億円の大台を突破したのが1987年だった事実を考えると、その凄さが分かっていただけるだろう。
世界選手権を10連覇した自転車競技会のレジェンド・中野浩一。その偉業はオリンピック4連覇・世界選手権16連覇の記録をもつ吉田沙保里などにも匹敵するほどの記録の持ち主なのである。
雑学まとめ
以上、日本で誕生した「競輪」の雑学と、競輪が「けいりん」と呼ばれる理由および、自転車競技界のレジェンドについてのトリビアをご紹介してきた。日本ではそれほど認知されていない自転車競技だが、ヨーロッパでは非常に高い人気を誇る「ケイリン」。
日本発祥の競技であることから、柔道のように国内での人気が高まってもいい気がするが、不思議なほどその人気は高くないのはなぜだろうか。2020年の東京オリンピックでは、ぜひ注目してほしい競技のひとつだ。
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