江戸幕府・8代将軍といえば徳川吉宗である。松平健が演じた時代劇・『暴れん坊将軍』ではイケメンで町人になりすますお茶目な将軍様だった。その後、松平健はマツケンサンバでさらにお茶目な姿になってしまいビックリだったのだが…。
話を戻すと、徳川吉宗の時代、幕府は財政難で、いくつかの改革で財政の立て直しを図った。それが「享保の改革」である。
そのひとつとして、支出の削減を目的に大奥の女性を50人クビにしたというのだ。しかも、その理由が理由だけに、クビにされた女性も女心をくすぐられ、納得して辞めたというのがすごい!
吉宗のいったクビの理由とはいったい何だったのか!?
【歴史雑学】徳川吉宗が大奥の女性50人をクビ→女性たちが納得した理由とは?
「美人なら大奥をクビになっても嫁の貰い手があるから」といわれたら怒るに怒れないのが女心!?
【雑学解説】大奥の美人ばかりを50人クビにした徳川吉宗
将軍から「大奥の美女を50人選んでくれ」といわれたら、これは側室選びが始まった! と大奥中がソワソワしたに違いない。
しかしながら、いわれた通り50人の美女をピックアップしたところ、吉宗からは「その50人には大奥をやめてもらう」とのお達しが。なんと美女たちはクビ宣告されてしまったのである。
側室になれるかもと舞い上がっていたところを、一気に地に落とされてしまったのだ!
ところが「美人であれば大奥をクビになってもすぐに嫁に行けるが、ほかの選ばれなかった人たちはここをやめたら行くところがなくなってしまう…」なんて言われてしまったら、悪い気がしないのである。
こうして、多くの女性たちを気分良くリストラすることに成功し、幕府の財政破綻を避けるための経費削減につながったというわけだ。
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【追加雑学】それでも大奥トップの女性には頭があがらなかった吉宗
50人の美女をリストラすることに成功した吉宗だが、より経費のかかる大奥トップの女性たちは残っていた。
50人もクビにするぐらいなら、トップの女性たちを辞めさせたり、報酬を減らしたりすれば良かったのではと思うかもしれないが、そうしなかったことには理由がある。
当時大奥を仕切っていたのは、6代将軍・家宣の正室だった天英院(てんえいいん)と7代将軍・家継の生母である月光院(げっこういん)のツートップであった。
この二人の女性は吉宗が将軍になることを推薦してくれたため、報酬が減らされることはなかったというのだ。経費を切り詰めなければいけないとはいっても、恩がある以上頭が上がらない…といったところだろう。
なにせ大奥の女性が将軍を指名するのは、史上初のことである。吉宗は女性が政治に口を出すという異例の事態があって誕生した将軍なのだ。
そもそも吉宗が将軍になれたのは、ものすごくラッキーなことだった!
紀州藩2代目藩主の四男として生まれた吉宗は、兄たちが次々に亡くなったため、22歳で5代目藩主になれた。その4年後に5代将軍・綱吉が亡くなり、6代将軍・家宣も3年で、さらに4歳で7代将軍についた家継も7歳になる前に病死してしまった。
そして、徳川御三家のなかで将軍の最有力候補とされていた尾張藩主の徳川吉通(よしみち)とその息子までもが相次いで亡くなってしまったことで、紀州藩の四男だった吉宗に将軍の道が開けたのだった。
将軍の家宣・家継と、吉宗の兄2人・尾張藩主とその後継ぎが次々と亡くなって棚ぼた式に吉宗に将軍の座が手に入ったのだ。何か不穏な力が働いていたのだろうか…?
本来なれるはずのなかった将軍になれてしまった吉宗はめちゃめちゃ運が良かったといえる。
雑学まとめ
幕府の財政を立て直すため、質素倹約に努めた徳川吉宗は、大奥の女性を納得のいく理由で解雇して経費削減を図ったのだった。
そもそも美人は容姿をよく見せるため着飾ってお金がかかったり、側室争いもしたりするため、吉宗もやり辛い部分があったようだ。
「美人だからしょうがない・かっこいいから我慢してくれ」なんていわれたら、あなたなら受け入れられるだろうか、リストラを。モヤモヤしつつも受け入れそうな自分が怖い…。