来たる2020年の東京オリンピックで盛り上がっている日本。実は東京でオリンピックが開かれるのは、これが初めてではない。1964年にも東京オリンピックは開かれていたのだ。
さて、1964年の東京オリンピックでは、男子マラソンで円谷幸吉という人物が銅メダルを獲得したが、この銅メダル獲得の裏には、ある悲劇が隠されているらしい。
今回の雑学記事では、その円谷幸吉の悲劇についてご紹介する。
【オリンピック雑学】東京五輪マラソン競技で銅メダルを獲得した、円谷幸吉の悲劇とは…?
【雑学解説】円谷幸吉は銅メダルを獲得した4年後に自殺した
円谷幸吉(つぶらやこうきち)さんは、福島県出身で農家の7人兄弟の末っ子。東北人らしい粘り強さ・親譲りの我慢強さ・勤勉さなど、マラソンに必要な素質をすべてもっていた。
マラソンの才能を見出されたのは高校2年のとき。駅伝の代走を務めた際に区間新記録を出したのをきっかけに、本格的にマラソンの世界に足を踏み入れるのである。
高校卒業後は自衛隊へと進み、その後、メダリスト養成所といわれる自衛隊体育学校へ入学した。そして数カ月後に行われた東京オリンピック候補選手記録会では、驚くべきことに当時の世界最高記録をマークした。
こうして、初マラソンから1年もたたずして、円谷さんはオリンピックの栄光の舞台に立ったのだ!
そしてオリンピック本番では、36km地点で2位に踊り出し国立競技場まで入ったが、最後のトラックで後続の選手に抜かれ、3位となってしまった…。しかしそれでも十分凄すぎる記録である。こちらが実際の映像だ!
一躍して日本国民のスーパースターとなった円谷さんだが、ここから挫折が待ち受ける。ショックな出来事がたて続けに起こったのである。
結婚の破談と怪我。そして、自殺へ
自身が望んだ結婚が、「メキシコオリンピックがあるのに、まからりならん」と自衛隊幹部の反対により、破談に追い込まれてしまう。結婚の許可を必死に迫った円谷さんが信頼を寄せていたコーチも、札幌へと左遷されてしまった。
何とかそれでもマラソンで結果を出そうと練習を続ける円谷さんであったが、周囲の期待に答えようと無理した結果、持病の腰痛が再発。さらに両足のアキレス腱が続けざまに切断してしまう。
手術を受け、懸命にオリンピックへと練習に励むが、病状は一向に良くならなかった。
オリンピックが近づくなか、思うように病状が回復しない焦燥感。さらに結婚もできず、信頼していたコーチもそばにはおらず、孤独感にもさいなまれる。
そしてメキシコオリンピックの開催年となる1968年、自分の部屋でカミソリを使い、頸動脈を切って自殺してしまったのだ…。
その首には、オリンピックで獲得した銅メダルがぶら下がっていた…。
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円谷幸吉の遺書
円谷さんは遺書を残していた。以下に全文を記す。
「父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。
敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、
ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、
ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、
幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
立派な人になってください。
父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒 お許し下さい。
気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。」
なんとも痛ましい内容の遺書だが、この遺書に対し、あの名作家・三島由紀夫は「円谷選手の死のやうな崇高な死を、ノイローゼなどといふ言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思ひ上がりの醜さは許しがたい。それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた」と語っている。
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円谷幸吉の雑学まとめ
今回の雑学記事では、1964年東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉さんについて取り上げた。
彼は、銅メダルを獲得したその4年後に自殺してしまう。ケガは致し方ないとしても、結婚をかたくななまでに認めなかったのは、なぜであろうか?
周囲の強要が、才能ある人物の一生を終わらせてしまったようで、何だかやるせない…。
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