現代のオリンピックと直接的なつながりはないが、古代オリンピックは1000年以上のあいだ開催されていた。その間には、様々な選手が出場している。なんとローマの皇帝がオリンピックに出場したこともあるという。
それが、暴君として歴史的に有名な第5代皇帝のネロである。数々の逸話で知られるネロだが、古代オリンピックでも数々の暴挙を行っている。
暴君ネロが古代オリンピックに参加していたという雑学についてご紹介しよう。
【オリンピック雑学】暴君ネロは古代オリンピックに参加していた
【雑学解説】暴君ネロのせいで古代オリンピックは2年早く開催された
古代オリンピックは紀元前776年に初めて開催され、開催回数は293回に及んでいる。その歴史は、1100年を超える非常に長いものだ。
ちなみに、殺し合いに近い過酷な競技が行われたこともあったが、オリンピック開催中は戦争が中断されていたことも分かっている。
オリンピックといえばフェアプレイを求められるものだが、古代オリンピックの頃からフェアに戦うことが当たり前だった。しかし、そんな古代オリンピックの伝統を破壊してしまう人物がいた。
それがローマ帝国の第5代皇帝で、暴君として有名な「ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス」だ。
ネロは善政を行ったという説もあるものの、母と妻を殺害したことやキリスト教徒を虐殺したことなどで暴君と呼ばれてる。
当時、ローマの大火はキリスト教徒が火を放ったとされたが、ネロが自ら火を放ちキリスト教徒に罪をなすりつけたという噂も流れた。下の動画はネロを主人公にした映画の予告編だが、史上最悪の暴君とまで呼ばれている。
そんなネロは、古代オリンピックに出場している。西暦66年、ネロは内乱状態のローマを放り出して、ギリシャへ旅行に行ってしまう。
すでに古代オリンピックの第210回大会は65年に行われたばかりで、本来なら第211回大会は69年に行われる予定だった。このように当時からオリンピックは4年おきに開催される大会だったのだ。
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しかし、ネロは67年に第211回大会を開催させるという暴挙に出てしまう。さらに、本来スポーツのみが行われていた古代オリンピックの競技に、自ら出場するための音楽種目まで追加させた。
音楽を非常に愛していたネロならではの行動といえる。また、スポーツ種目にも参加している。
本来ならあり得ない競技を作り出したインパクトのせいか、テレビゲーム「ペルソナ5」ではネロがどの競技に出場したのかがクイズの問題にされているのだ。現代のゲームに出るほどの影響力…。
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【追加雑学①】暴君ネロはオリンピックの「1808」の競技で優勝している!
ローマ皇帝の威光で古代オリンピックに出場したネロだが、実力は大したことはなかったらしい。竪琴の演奏者として知られているネロだが、その演奏は親友が退屈で眠ってしまうものだったという。
歌に関しては、牛よりもひどい声だったといわれている。戦車レースに参加した際は、途中で落下しリタイアした。それにもかかわらず、戦車レースの優勝者がネロになるという信じられない出来レースも行われた。
これはネロを恐れた審判が気を回した結果ともいわれており、不正は次々に行われたらしい。肝心の音楽種目に関して詳細な記録は残されていないが、7種目で優勝したようだ。
古代オリンピックにメダルはなく、勝者にはオリーブの冠が与えられていた。多くの競技に出場したネロは、1808ものオリーブの冠を獲得したという。
信じがたい数だが、1800を超える競技に出場して優勝したことになっているのである。
どこまで不正が行われたのか詳細はわからないが、これだけの競技で優勝している時点で不自然すぎる。さらにネロが音楽の演奏を行った際は、退席することが許されなかった。
そのため客席で出産する女性が現れたり、死んだことにして棺に入って逃げ出す人間もいたという。当然、ギリシャの人々がこんな大会に納得するはずはなく、大問題に発展している。
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【追加雑学②】ネロの出場した古代オリンピックは記録から抹消された
ギリシャでやりたい放題を行ったネロは、68年にローマに帰国した。しかし、打倒ネロの声が高まり、その年のうちに自害に追い込まれたという。
もともと、ネロはローマ市民からの支持率は高かった。だが、穀物の価格が高騰していた時期に穀物運搬船を使って、闘技場の砂を運んでいたことが発覚した。このことが市民の反感を買い、対立していた元老院につけこまれたといわれている。
古代オリンピックでは華々しい成績を残したネロだが不正が行われたのは明らかで、ギリシャ国内での批判は収まらなかった。
批判が強いこともあってか、結局ネロの死後に優勝はなかったことになり、最終的に大会そのものが古代オリンピックの公式記録から抹消されてしまった。
現代の研究者の中には、この第211回大会を正式な古代オリンピックだったとは認めないという意見もある。また、ネロのせいで2年ズレた開催年は元に戻ることはなく、第212回大会は71年に行われた。
ネロと対立していた元老院はネロが皇帝だった記録を抹消しようとしたが、翌年皇帝になったアウルス・ウィテッリウスはネロの盛大な葬儀を行ったという。
ネロの支持がたしかであったことを感じさせるエピソードとして、ネロの皇帝像が破壊され、再び建設されていたこと。ネロの墓に連日、花や供物が絶えなかったことが挙げられる。
しばらくするとネロは神格化され、復活したという噂や偽物が何人も現れたことが記録されており、歴史上まれに見る暴君とされるネロだが、意外にも市民からはかなり愛されていたようだ。
ネロと古代オリンピックの雑学まとめ
古代オリンピックに暴君ネロが出場していたという雑学についてご紹介した。
暴君として知られるネロだが善政を行っていたことも間違いなく、市民のことを第一に考えた政策を行うことが多かったという。
あまりに古い時代で客観的に信頼できる資料も少なく、ネロが暴君という評価には誇張された部分も大きいといわれている。
当時の皇帝は現代では考えられない残酷な行動や横暴な振舞いをするのは当たり前であり、ネロのしたことが特別だったわけではないという意見もあるのだ。
ネロは16歳の若さで皇帝になり、30歳で亡くなっている。ローマの街を復興させた手腕は、ネロに批判的な人物も絶賛しており、能力的には非常に有能だった可能性が高い。
しかし、古代オリンピックでのやりたい放題ぶりを見ていると、暴君だったことは否定しようがないだろう。