『雨ニモマケズ』は、大正時代の作家・詩人である宮沢賢治の書いた詩である。現代の我々からすれば『雨ニモマケズ』は、誰もが知る名作といっても良いだろう。
しかし、『雨ニモマケズ』は実は人に発表するために書かれた詩ではない。賢治が自分の手帳に書いた、いわばメモ書きのようなものの一部なのである。
この手帳が発見されたのは賢治が亡くなった1年後…とある出来事がきっかけで偶然に見つかり、世に広まったのだ。
『雨ニモマケズ』が記された手帳は一体どのように発見されたのか、その手帳には何が書かれていたか。『雨ニモマケズ』を読むだけでは見えない、手帳の中身にまつわる雑学を書いていこうと思う。
【歴史雑学】『雨ニモマケズ』は、宮沢賢治の死後に発見された手帳に書かれていたもの
【雑学解説】『雨ニモマケズ』は、賢治が亡くなった1年後に偶然発見された
『雨ニモマケズ』の書かれた手帳は、通称「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれている。この手帳が発見されるまでの経緯を書くには、まず賢治が亡くなった直後まで話を戻す必要がある。
賢治が亡くなったのは昭和8年9月21日。37歳という若さだった。賢治は亡くなる前に弟の宮沢清六に「自分が書いた童話や詩の原稿を、本にしたい者がいたら出版してほしい」と言い、まるごと託したという。
この時点であの有名な『銀河鉄道の夜』も『風の又三郎』も未発表の状態であったのだ。創作活動をしていた時期はこれらの原稿を、大きなトランクに詰め込んで持ち歩いていた。
…後に見つかる『雨ニモマケズ』の手帳はこのトランクから見つかることとなる。
賢治が亡くなった年の11月。生前に面識はなかったものの同人誌などを介して賢治と交流のあった、「蛙の詩人」として有名な草野心平が賢治の死を悼み、『宮沢賢治追悼』という本を刊行した。
この『宮沢賢治追悼』の刊行の後に心平は、宮沢清六と同人誌繋がりで賢治と交流のあった高村光太郎、そして、賢治の死後に彼を知って強く感銘を受けたという小説家の横光利一らとともに、昭和9年10月に文圃堂(ぶんぽどう)という書店から初の『宮澤賢治全集』を刊行したのである。
生前は無名作家であった宮沢賢治が大きく注目されるきっかけを作ったのは心平や清六、その他少数の賢治ファンたち。彼らの必死な布教活動あってのことだったのだ。
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手帳はトランクのポケットから見つかった
手帳が見つかることとなる発端は、この全集の発行よりも数ヶ月前の昭和9年2月に会合を開くことになったことだ。
「第一回宮沢賢治友の会」と銘打たれ、東京の新宿にあった「モナミ」という喫茶店にて行われた。ちなみに、会合には『ごんぎつね』で有名な新美南吉といった、我々も知っているような作家も参加していたという。
清六はこの会合の準備でトランクの原稿の整理をしていた時、内ポケットがあることに気付き、中を見ると革張りの黒い手帳が出てきたという。そう、これが「雨ニモマケズ手帳」が賢治以外の人の目に触れた瞬間だったのである。清六は岩手から賢治のトランクに原稿を詰め込み、上京してきた。
清六は原稿と共に会合の参加者にこの手帳を公開したところ、参加者たちは大いに盛り上がったそうだ。内容は賢治の信仰していた法華経に関する記述や手記といったものであったが、やはり『雨ニモマケズ』の存在は強かったのだろう。同年9月には手帳に書かれていた『雨ニモマケズ』が岩手日報にて初めて活字化された。
それ以降は心平の宮沢賢治関連書籍や学校の教科書などに掲載され、どんどん一般にも知られていったのである。
【追加雑学①】病に苦しむ賢治はこの手帳に、自分の思いを記した
このような経緯で人に知られるようになった「雨ニモマケズ手帳」であるが、先に記したように『雨ニモマケズ』以外にも様々なことが書かれているのだ。
書かれた時期は手帳の内容から察するに賢治が病で苦しんでいた頃である。東京で発熱したことを最初のページで書き始めてから、以降は前述したような法華経のお題目や、父親と母親に関する手記が多く書かれている。
ここからは手帳の内容を少し紹介していこうと思う。それらを見たうえで、賢治が何を思っていたのか、考えてみるのも良いだろう。
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「再ビ東京ニテ発熱」と賢治の遺書
「雨ニモマケズ手帳」はトランクのポケットから出てきたとさきほど書いたが、実は手帳の他に、別のものが入っていたのである。それは賢治が家族に宛てた2通の遺書。
なぜかトランクのポケットに入ったままになっていたのだ。この遺書を清六が発見したのは東京の会合が終わり、岩手へ戻ってきてからである。
この遺書は、手帳の内容と賢治の病が関係していることを考える手がかりになった。遺書の日付と、手帳のはじめのページに書かれた走り書きの日付が繋がっているのだ。
手帳の走り書きには「昭和六年九月廿(にじゅう)日、再ビ東京ニテ発熱」という内容が大きく記されている。賢治は昭和6年9月19日に、当時働いていた石灰工場の製品のセールスのために岩手から東京へ向かい、翌20日には「八幡館」という宿に泊まった。
この宿で賢治は医者を呼ぶほどの高熱を出したという。このとき体の異常を感じた賢治は死を覚悟し、遺書をしたためていた。その父母に宛てた遺書の日付に「九月廿一(にじゅういち)日」と書かれており、手帳の内容と時系列が一致している。
その他、小さく書かれている「大都郊外ノ 煙ニマギレントネガヒ…」や「父母ニ共ニ許サズ…」。この内容は東京に永住する覚悟があったが、上京して1週間後に父親の厳命で岩手に帰ることとなり、父母に病の看病をしてもらう状況になってしまったことを記したものであるといわれている。
『雨ニモマケズ』に続く「南無妙法蓮華経」
『雨ニモマケズ』の最後には「ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と、書かれている。この一文が印象に残っている方も多いのではないだろうか。
実は『雨ニモマケズ』は、続きがあるのだ。手帳の9ページ分を使って書かれたこの詩の10ページ目には「南無妙法蓮華経」と大きな文字で書かれている。これは、日蓮宗の「大曼荼羅(だいまんだら)」というものを書き写したものである。
この「雨ニモマケズ手帳」のあらゆるページに「南無妙法蓮華経」の文字がたくさん登場するが、これは賢治が法華経を深く信仰していたからだ。手帳に限らず童話などにも法華経の教えの影響は色濃く出ている。
筆者自身は、賢治関連の本を読んで法華経のことを知ったのだが、法華経にはいわゆる「自己犠牲」の精神の教えがあるという。『雨ニモマケズ』なら「東ニ病気ノコドモアレバ…」といった描写が人のために動こうとする、法華経の精神を表しているといってもいいだろう。
また、「ミンナニデクノボートヨバレ…」という部分の「デクノボー」は「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)」という仏様を指しているといわれている。この仏様のように自身が人々から迫害されるようなことがあっても、人のために祈り続けたいという賢治の理想が読み取れる。
「(常不軽菩薩のように)…ワタシハナリタイ」という文章のあとの「南無妙法蓮華経」…もしかして『雨ニモマケズ』は詩ではなく、法華経信者としての賢治自身の願いを記した言葉であったのかもしれない。
病と戦いながらも賢治は常に法華経の教えを決して忘れず。そして、心に深く刻み込み、最期まで人々のことを思い続けていたのであろう。
「デクノボー」
ところで、この手帳には『雨ニモマケズ』と関連しているのではないかと思われる「土愚坊(デクノボウ)」という手記が、『雨ニモマケズ』の数ページ後に書かれている。
これは劇の構想を練ったものであるとされる。賢治は教師時代に『飢餓陣営』といった劇の脚本を書き、上演していたこともあるのだ。
「土愚坊」のタイトルの横に小さく「ワレワレカウイフモノニナリタイ」と書かれている。どこかで聞き覚えのあるフレーズだ。
第四景には「老人死セントス」、第五景には「ヒデリ」とも書かれている。「南ニ死ニサウナ人アレバ…」「ヒドリノトキハナミダヲナガシ…」あらゆる部分で『雨ニモマケズ』と共通した箇所が存在しているのだ。
『雨ニモマケズ』は、劇の構想前のアイデアとして書かれた走り書きという可能性もある。
「塵点の劫」
手帳にはペンホルダーがついており、折って丸めた紙片が刺さっている。この紙片も賢治の言葉が書かれていた。
「塵点の劫」というのは果てしなく長い年月のことを指している。この紙片の塵点の劫は、法華経という宗教の誕生から、賢治が今生きている時代までの長い時間のことと考えられる。
簡単にいうと、法華経という宗教が誕生し、長い月日を巡って賢治自身がこの教えと出会えたことに喜びを感じているという意味になるそう。
賢治は生涯、自分の言葉を通じて法華経の教えを人々に伝えていきたいと考えていた。母にあるとき自身の原稿を見せ、「この童話は、ありがたい仏さんの教えを、一所懸命に書いたものだんすじゃ。だからいつかはきっと、みんなでよろこんで読むようになるんすじゃ」と語っていた。
賢治は遺言として父親に『国訳妙法蓮華経』という経典を千部刷り、知人友人に配ってもらうように頼んだ。この経典のあとがきに、「お経を手にとった人物が仏様の教えに触れ、最上の道を歩むことができるように願うことが私の生涯の仕事である」という言葉を残している。
自分が信仰した法華経の教えを死の間際まで、賢治は信じ続けたのである。最期は水を美味しそうに飲み干し、自分でオキシフルを湿らせた脱脂綿で体を拭いて、そのまま静かに穏やかな表情で息を引き取ったという。
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【追加雑学②】『雨ニモマケズ』にはモデルがいた?斎藤宗次郎とは
さきほど「デクノボー」は法華経の仏様を指していると書いたが、他にも実際のモデルがいた可能性もある。
それが、賢治と同じ岩手県花巻市に住んでいた、斎藤宗次郎という人物だ。
彼はお寺の子として生まれた。しかし、教師として働いていた時にキリスト教と出会い、クリスチャンになる。
大正時代のクリスチャンは「耶蘇(やそ)」と呼ばれ、差別される存在だった。キリスト教徒になった宗次郎も迫害の対象だ。
嫌がらせをうける日々が続き、ついに最悪なことが…。9歳となる宗次郎の娘が耶蘇の子供と言われ、腹を蹴られたことで亡くなってしまうという事件が起こる。
宗次郎は娘を亡くし、苦しみながらも祈り続けた。
どんなに辛く苦しくとも、「愛をもって人に仕える」というキリスト教の教えに、宗次郎は従い続けたのだ。雨の日でも風の日でも困った人がいれば助け、病気の人がいれば見舞いに行き、祈り続けたのである。
まるで『雨ニモマケズ』そのものを体現したかのような人物だ。どんなにひどい目にあっても人のために尽くそうとする姿は「デクノボー」の常不軽菩薩と同じ。
迫害され続けながらも、諦めずに人々に尽くし続けた宗次郎は、ある時東京へ引っ越すこととなる。見送りなど誰もいないであろうと思いながら駅へ向かうと、そこにはたくさんの人々が宗次郎を見送りに来ていたという。宗次郎の行いが、次第に人々の心を動かして行った結果である。
その見送りの群衆の中に、宮沢賢治もいたのである。賢治とは宗教について語り合ったりするなどの交流もあったそうだ。そこで賢治自身も宗教の壁を超えて、宗次郎の宗教観念になにか感じるものがあったのかもしれない。
実際のところ宗次郎がモデルであるかは定かではない。しかし、法華経の自己犠牲の精神を信じる賢治であったからこそ、多少なりとも通じるものを感じていたのではないだろうか。
【追加雑学③】方言で『雨ニモマケズ』を聞こう!
ここで『雨ニモマケズ』を聞いてみよう。どのように感じるだろうか。今回は普通の朗読ではなく、東北の方言で朗読をする男性の動画を見ていただこう。
素朴な雰囲気が宮沢賢治の気取らず、自然なままに書いたような文章のイメージにぴったりであると筆者は思った。
個人的には賢治童話の朗読で有名な長岡輝子さんのような、方言の訛りがある朗読が好きだ。方言で聞くと温かさを感じて、どこか賢治の考えもより伝わってくるような気持ちになる。
雑学まとめ
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』にまつわる雑学をご紹介してきたが、いかがだっただろうか。「雨ニモマケズ手帳」は賢治の死後、偶然にトランクから発見されたものであった。
手帳には賢治の宗教観や思いを強く感じることができる内容が書かれていた。これらを見る限り、『雨ニモマケズ』がただの詩ではないかもしれないというのは、感じられるはずだ。
賢治は死の間際まで、病気に苦しみながらも、それ以上に人々の幸せを祈り続けた人物なのである。手帳がトランクから発見され、世に広まったのは偶然ではなく、運命だったのかもしれない。
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