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宮沢賢治の生前がつらすぎ…。全く評価されていなかった文才|歴史雑学

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宮沢賢治に関する雑学

宮沢賢治

突然ではあるが、宮沢賢治を知らないという日本人はどれくらいいるだろうか。国語の教科書にも載っている人であるため、知っている人の方が圧倒的だろう。不思議と引き付けられる独特な文体が人気で、今でもファンの多い国民的作家だ。

後世に残る作品を残した大作家なのだから、さぞや存命中も引っ張りだこで忙しい人気作家だったんだろう羨ましいぜ…などと思ってはいないだろうか? 驚くことに賢治は生前は悲しいくらいに評価されていなかったのだ。

一体なぜ彼は評価されなかったのか? そして意外なきっかけで有名になった理由を紹介していきたいと思う。宮沢賢治という人は想像以上の苦労人だったのである!

【歴史雑学】宮沢賢治は生前は全く評価されていなかった

現在のように評価されたのは死後である。生前に売った童話に絡むトホホなエピソードも存在する…。

【雑学解説】物語の難解さと知名度の低さが原因!本も全く売れず苦戦していた

結論から言ってしまうと、賢治が評価されなかった原因は2つある。

ひとつは岩手という東京から遠い土地の出身であることが原因で、人に知られる機会がなかったということ。もうひとつは、独特な思想を織り交ぜた作風が難しく、当時の人々には理解されにくかったことである。

賢治の物語は、岩手の風景をモデルにした「イーハトーブ」という架空の土地の出来事だという設定があることはファンなら知っているが、童話の中には、賢治の理想や彼が影響を受けた宗教の思想などの概念も含まれているため、当時は理解されないことが多かった。

感じたままを文にした斬新すぎる内容は、変わり者の一面もあったという賢治だからこそ生み出せたものなのだろう。大人でありながら空想が止まらなかった賢治を見ると、柔軟な思考は大人にこそ必要なものだとわかる。

【追加トリビア①】童話を持ち込んだ児童向け雑誌には全く相手にされなかった

赤い鳥の原本

賢治は岩手の農林学校で教師をするかたわら、畑仕事をしている最中に詩や物語を考えていたという。そして、「自分で考えた物語を本にして読んでもらいたいなぁ…」という気持ちが沸々と湧き上がってくるのである。

ルンルン気分で自分の童話が本になる妄想をしていたであろう賢治は、大正時代であった当時、特に人気の高かった「赤い鳥」という児童雑誌の主賓者・鈴木三重吉に、書いていた童話の原稿を送る。しかし評価されるどころか「あなたはロシア文学でも書けばよいでしょう」と一蹴されてしまった。

他にも、婦人画報社にも持ち込みをしているが即断られていたりと、賢治の童話を理解するものはいなかったのである。

就職でも婚活でも断られ続ければ誰でも落ち込んでしまうものだが、賢治はそこで諦める男ではなかったのだ。

相手にされなかった「赤い鳥」に広告は掲載してもらえた

赤い鳥に掲載された「注文の多い料理店」の広告の原本

先で書いたように賢治は「赤い鳥」への寄稿をきっぱりと断られてしまったが、なんと皮肉なことに、売上不振だった「注文の多い料理店」の広告だけは載せてもらえたのである。

これは縁あって賢治と知り合い、童話集の挿絵を担当した菊池武雄のおかげでもある。菊池は「赤い鳥」でも引っ張りだこの絵描きで、今で言うところの神絵師だったのだ。彼が必死に頼み込んだことから実現した広告は、1ページに大きく載せられた。

寄稿は断られたが広告はOKしてもらえたというのは、本当に皮肉以外何者でもない…。私ならもう関わりたくないと思ってしまう。宮沢賢治のメンタルの強さは相当なものだったのだろう。

【追加トリビア②】生前に売れた童話の本はたったの500冊…その内200冊は賢治の自腹購入

宮沢賢治の「注文の多い料理店」原本

寄稿を断られた賢治は次に、自費出版という形で童話集「注文の多い料理店」を出すことを決める。しかしこの本は、制作段階から紙などの素材にこだわりすぎていたため大赤字。

1冊「1円60銭」という値段で売る本を1,000部も刷ったが、売れた数は僅かに300冊…。最終的に賢治は200冊を自分のポケットマネーで購入するという結果となった。

ちなみに、大正時代の1円とは、現代の価格にしておおよそ4,000円程度とされている。つまり童話集「注文の多い料理店」の価格は、現代に換算すると約6,400円となる。高い…! 自費出版をする皆様は、お財布と計画的に相談して印刷していただきたいものである。

童話集はこの後も続編が出る予定であったが、もちろん続きが出ることはなかった。生前に出た賢治の本は、この童話集と「春と修羅」という詩集のみである。出版にあたっては、仲間に出版費用を持ち逃げされるなどといったトラブルも発生し、もはや賢治本人が童話の主人公のようである…。

【追加トリビア③】評価された理由は死後に全集や単行本が世に広まったから

宮沢賢治の「春と修羅」原本

童話集発行後も、賢治は石灰肥料の開発などを行いながら創作活動を続けていたが、昭和8年、病でこの世を去ってしまう。37歳という若さだった。世間からは大きな評価をもらえないまま、賢治は亡くなってしまったのだ。

しかし、全ての人に評価されていないわけではなかった。「春と修羅」の詩集は、一般ウケはしなかったものの、詩人の間ではかなり高い評価を受けていたのだ。そのうちの一人に草野心平という詩人がおり、大きな衝撃を受けていた。

心平は一度も賢治と対面することはなかったが、自身が主催する同人誌に誘うなどの交流があり、訃報を聞いたときも賢治の実家に駆けつけたほどに賢治に惚れ込んでいた。心平は世に賢治童話を広めようと、日本で初の「宮沢賢治全集」を制作した。

全集は見事に話題となり、これが私達が知る宮沢賢治人気のきっかけとなったのだ。

中原中也は賢治が評価されていなかったことを疑問に思っていた

草野心平の「宮沢賢治研究」原本

草野心平は賢治全集発行後に「宮沢賢治研究」という本を出しているのだが、この本の中ではなんと「汚れつちまつた悲しみに」で有名な中原中也が賢治について語っているのだ! ロボットのテキスト読み上げ音声動画を発見したので、実際に聴いてみよう。

賢治が評価されなかった理由は、中也らしい表現でほぼ正確に予想しているといって良いだろう。さらに、自分が無名でなければもっと広められたのに…とも語っている。中也さん、あなたも日本を代表する文豪の一人ですよと、伝えたくて仕方がない。

喋りがおかしい部分があるが、これは原文に従っているからである。原文の内容は青空文庫内で公開されているので、興味があれば見てみると良いだろう。

トリビアまとめ

宮沢賢治は生前は全く評価されていなかったということに関する雑学

宮沢賢治が無名作家のまま世を去ってしまったのは、決して作品のクオリティやレベルが低いというわけではなく、ただ単にめぐり合わせが悪かっただけなのだ。

実際に一部の詩人たちの評価が高かったことは事実で、たまたま評価されたタイミングが死後であったというわけである。改めて読んでみれば、あまりにも現代人好みの作風だと思うのだ。ミュシャの絵の現代人ウケが良いことに近いのではないだろうか?

それでもやはり、宮沢賢治の物語は理解するのが難しいと思う方もいるだろう。しかし賢治の物語は考えるよりも、自分の思ったまま勢いで感じることが大事である。賢治本人が感じたままを描写したように、我々も思ったように感じれば良いのだ。

感じるのだ…宮沢賢治はのめり込むと本当に面白いから…。

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