トイレに行きたくても、トイレが見つからない。誰もがそんな経験を一度はしているのではないだろうか。筆者も、車での移動中や散歩の途中などに尿意をおぼえ、悶絶した経験をもっている。
こうした経験はなにも現代人だけに限らないだろう。たとえば、江戸時代の大名たちはどうだったのだろうか。この記事では、江戸時代の大名行列の際に、全国の大名はどのように用を足していたのか、雑学としてご紹介する。
【歴史雑学】大名行列の途中、殿様は「おまるかご」で用を足していた?
【雑学解説】大名行列の際のトイレ事情とその知られざる慣習
全国の諸大名が大名行列をおこなったのは、江戸幕府が定めた参勤交代の制度にある。参勤交代を定めた「武家諸法度(ぶけしょはっと)」は、1636年、3代将軍・家光のときに正式に全国の大名に対して発布された法令である。
江戸時代、各国の大名を1年おきに江戸へ赴かせ、幕府に対する忠誠を誓わせるための制度のことである。また幕府にとっては、全国の諸大名に参勤交代を強いることで多額な出費を消費させ、経済力を削ぐ狙いもあったのだ。
参勤交代の際には、全国の諸大名は、隊列をつくって江戸(領国)へ赴いたとされる。では、その際、各大名はどのようにトイレを済ませていたのか。
ネット界隈では、トイレ専用の籠である厠駕籠(かわやかご)を行列に参加させ、大名が尿意や便意をもよおすと、その中に入って用を足したといわれるが、今回調べた限りでは本当に行われていたか確認はできなかった。
ただし、大名によっては携帯用のおまるで用を足したり、2~3里ごとに小屋を作り、そこで用を足した者、道ばたに幕を張って、番兵が警護するなかでトイレを済ませた者など、諸大名によってさまざまな方法でトイレを済ませたとされる。
スポンサーリンク
【追加雑学①】大名行列が通るときは平伏しなくてOK
読者の方のなかには、大名行列の際は人々はその場にひれ伏し、行列が過ぎるまで顔を上げてはならないというイメージが強いのではないだろうか。じつは、そうではないのだ。
徳川将軍家をはじめ、徳川御三家や自国の大名が道を通る際は、領民は道にひれ伏して行列を迎えなければならなかったようである。しかし、それ以外の領主が通った大名行列の場合は、人々は行列の邪魔にならないように道を譲るだけでよかったようである。
また平伏をするにしても、大名が乗った籠(かご)が通り過ぎる際にだけ、ひれ伏すだけでよかったとされている。浮世絵に描かれた大名行列の見物客は、実際そのように描かれているのだ。
ただし、行列の前を横切ったり、列を乱すような行為は、その場で刀で切られても仕方がないという暗黙の了解もあった。
なお、郵便物を扱う飛脚と出産を助ける産婆のみが、行列を横切ることを許可されていたようである。
おすすめ記事
-
切り捨て御免…じゃない!大名行列を横切ってもいい職業とは?
続きを見る
【追加雑学②】日本一の藩・加賀藩が大名行列にかかった費用とは?
先にご紹介したように、大名行列は、自国の繁栄と権勢を人々に見せつける絶好の機会だった。そのため江戸にのぼる大名行列は、その服装は壮麗をきわめ、隊列も大人数にのぼった。
日本一の藩で知られた加賀藩では、平均2,000人前後、最盛期には4,000人に及ぶ大名行列を行ったそうである。そのため莫大な費用を計上したというのだ。
時代によって旅程が異なり、かかった日数にはバラつきがあるものの、江戸に着くまでの約1週間~2週間ほどのあいだに、約数億円を要したという。加賀藩では、1635年~1862年のあいだに、合計190回の大名行列が実施されたという。
参勤交代は多くの藩で財政を圧迫したため、次第に規模が縮小され、幕府によって大名行列に参加する人数が定められることになった。
また、参勤交代は藩主が重度の病に罹ったり、領国が天災や飢饉に見舞われた大名や、大名の居城が火災に見舞われたりしたなどの場合は、その役が免除されていたという。
雑学まとめ
大名行列の際、大名は簡易トイレや道ばたに幕を張るなどして、さまざまな方法で用を足していたことがわかった。それに関連して大名行列にまつわる2つの雑学をご紹介してきた。
領民や周辺の民衆に対して、自国の権勢を誇る絶好の機会だった大名行列。だが、その大名行列が、藩の財政を圧迫するようになったのは、なんとも皮肉な話ではないだろうか。
壮麗を極めた大名行列の裏には、諸大名の経済力を削ぐ幕府の巧妙な政策が隠されていた。