「忠犬ハチ公」の話は、多くの人が一度は聞いたことがあるだろう。いつも駅まで出迎えに行っていた主人が職場で急死してしまい、それを受け入れられなかった犬が、その後9年間渋谷駅に通い続けるという、感動のエピソードだ。
犬が人の死を理解できないということはあるかもしれないが、それにしても人間なら最初の1週間ぐらいで「もう帰ってこないだろうな」と諦めてしまいそうなものだ。…と、感心していると、水を差すような噂が耳に入ってきた。
なんでも、ハチ公は主人を迎えに駅まで通っていたのではなく、渋谷駅前の屋台でエサを貰えるから通っていたというのだ。それが本当なら、忠犬のエピソードを取り上げた人間側が勝手に美談にしていただけになってしまう。
それもそれで面白いが、やっぱりちょっと残念な気がする。本当のところはどうなのか調べてみると、さらに心温まるエピソードが隠されていた! 今回は「忠犬ハチ公」についての雑学を詳しく解説していく!
【動物雑学】ハチ公が駅に通ったのはエサを探していただけ?
【雑学解説】渋谷駅の屋台でエサを貰っていたのは、通い続けた9年間の最後の2年だけ
ハチ公は主人が亡くなってからは別の飼い主に引き取られたが、それでも毎日夕方になると渋谷駅へと出かけ、亡くなった主人の帰りを待っていた。そして、ハチ公が駅へ向かう夕方の時間帯は、丁度駅前の屋台が営業し始める時間帯でもあった。
そう、いつもやってくるハチ公を可愛がった屋台の店主が、エサを与えていたのだ。ハチ公は死後、はく製にされることになったが、その際の解剖では焼き鳥の串が3~4本お腹の中から見つかっている。
これだけを聞くと「なんだ、じゃあハチ公が毎日駅に通っていたのは、エサを貰うためではないか!」となってしまうが、ちょっと待ってほしい。
ハチ公は1925年に主人が亡くなってから9年間、渋谷駅へ通い続けたが、それが世間に知られるようになったのは1933年のこと。「東京朝日新聞」にてハチ公のことが紹介されてからだ。
エサを貰えるようになったのも、渋谷駅を訪れる人たちがハチ公のエピソードを知った後のこと。つまり、ハチ公が屋台で焼き鳥を貰っていたのは、9年間のうち最後の2年間だけなのだ。
おまけに、ハチ公は朝も主人を見送る習慣があったため、朝と夕方の一日2回、渋谷駅を訪れていた。そういった話からも、エサのために通っていたのではないことは明らかだ。
ハチ公が屋台でエサを貰えるようになったのは、主人を待ち続ける姿を渋谷駅界隈の人たちが応援するようになったという、それもまた心温まるエピソードだったのだ。
おすすめ記事
-
いまでも聞ける!忠犬ハチ公の肉声が収められたレコードがある【動画あり】
続きを見る
スポンサーリンク
【追加雑学】忠犬ハチ公として知られる前はイタズラされ放題だった
新聞でハチ公が紹介されることになったのは、日本犬保存会初代会長の斎藤弘吉さんが、渋谷駅でいじめられているハチ公を不憫に思ったことがきっかけだ。
そう、新聞で紹介されるまでハチ公は屋台の店主からも「邪魔だ」といわれ、駅を訪れる子供たちからもイタズラされ放題だったのだ。ハチ公は大人しい性格だったため、吠えたりすることもなく、それがまたいじめに拍車を掛けていたのだろう。
顔にメガネや眉毛が落書きされていたこともあったという。修学旅行などで、寝ている友達によくやるあのイタズラである。相手が寝ている人間ならまだしも、犬にそれができてしまうとは…やはりハチ公はよほど大人しかったのだろう。
雑学まとめ
今回の記事ではハチ公についての雑学を紹介させてもらったが、いかがだっただろうか。ハチ公が渋谷駅に通っていたのは、エサを貰うためではなかった。エサが貰えるようになったのは、待ち続ける姿に人が感動した結果で、ハチ公は紛れもなく忠犬だったのだ。
「焼き鳥がほしくて駅に通っていたのを見ていた人が勘違いしたというなら、それもそれで面白いのでは…」なんて浅ましいことを考えていたのは絶対に秘密だ。
おすすめ記事
-
悲しい歴史。現在の"忠犬ハチ公像"は二代目!
続きを見る