「一休さん」と聞くとアニメの影響もあって、小坊主姿の愛らしい人物を思い浮かべる方が多いかもしれない。しかし実在の一休は、そのイメージとはほど遠い、既存の権威や慣習にあらがった波乱万丈の生涯をおくった人物だった。
それは常人とは異なる一休の出生からもうかがえる。
彼は天皇の血をひいた人物であり、天皇の落とし子だったのではないか、といわれているのだ。この記事では、彼の出生時のエピソードと波乱万丈の生涯についての雑学をご紹介するぞ!
【歴史雑学】一休宗純の生涯
【雑学解説】天皇の息子にして世に反逆した一休宗純(そうじゅん)
一休宗純が生きた当時の時代情勢は南北朝時代が終焉した直後で、社会は混乱のさなかにあった。時代の世相を反映してか、一休の出自にはある事実が隠されている。
それは第100代の天皇・後小松天皇の子だったのではないかというものだ。後小松天皇は室町期の北朝最後の第6代天皇である。一休の母は照子姫(てるこひめ)といい、藤原氏の血をひく朝廷の高官の家筋にあたる。
彼女は天皇のもとに宮仕えをしており、後小松天皇の寵愛を受けていたが、それを恨んだ者の流言によって、彼女を宮中から追い出したのではないか、といわれている。天皇の子(落とし子)だったにもかかわらず、一休はこうして京都の民家で産まれるに至った。
波乱万丈の生涯をおくった一休宗純
幼少の頃に京都の禅寺へ出家した一休。
彼は生涯を閉じるまで波乱万丈の人生を送った。20歳のとき、一休が尊敬する謙翁和尚(けんおうおしょう)という人物が亡くなると、あまりの悲しみから、その後を追って入水自殺を試みている。
また禅僧でありながら、戒律で禁じられた、酒・女・肉にも手を出している。また晩年には、大徳寺の住職が亡くなった法要の際にも、ボロ布をまとっただけの姿で参列したりと、風変わりなエピソードには事欠かない。
一休がこうした行動に出たのは、仏教界の腐敗や偽善に対する痛烈な批判意識と反抗精神にあったといわれている。地位や名誉に反抗した一休は、まさにロック魂を持ち合わせていた人物だった。
スポンサーリンク
【追加雑学①】一休寺と呼ばれる寺がある【動画】
京都には通称・一休寺と呼ばれる寺院があるのをご存知だろうか。
正式な寺の名称は、臨済宗の大徳寺の宗派にあたる「酬恩庵(しゅうおんあん)」である。この寺院は、京都府京田辺市の甘南備山(かんなびやま)の麓に建立されている。ここで酬恩庵の様子をご覧いただこう。
一休は88才で亡くなるまでの約25年間にわたってこの庵に起居していた。
現在でも寺の境内には、彼の墓所が現存しており、墓所の門扉には、それぞれ左右に菊の紋様のすかし彫りが施されている。日本の国章である菊の紋様から分かるように、この墓所は現在、宮内庁の手によって管理されている。
【追加雑学②】一休宗純の名前の由来は「歌」
「一休」という名は、彼が自作した歌中に登場することばに由来をもつ名だったのをご存知だろうか。あらましはこうである。
一休は若い頃、高名な禅僧である華叟宗曇(かそう そうどん)という人物に師事していた。その当時、一休は盲目の女芸人・瞽女(ごぜ)による弾き語りを聴き、その心境を歌に詠んだ。それは以下のようなものである。
「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
この歌はざっくり要約すると、人生は来世に至るまでの「一休み」の出来事にしか過ぎないので、どんなことが起きても大したことではないという内容になる。
一休の師は、歌にある「一休み」という言葉に目をとめ、彼に「一休」という名を授けたといわれている。
一休宗純の雑学まとめ
一休の出自やその生涯にまつわる雑学についてご紹介した。一休と聞くと、愛らしい小坊主姿の少年をイメージする方が多かったかもしれない。
しかし実在の一休は既存の戒律や伝統に反逆し、酒や女を愛した、当時の常識では考えられない風変わりな僧だった。一休は煩悩と悟りのあいだに生きた人物だったのである。