日本人の勤勉と悲哀を体現したような、清らかなイメージをもたれがちな明治を代表する歌人・石川啄木。
- 「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る」
- 「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ」
- 「ふるさとの訛(なまり)なつかし 停車場の人混みの中に そを聴きにゆく」
質素ながらも家族と花を愛で、ときどき郷愁の想いに駆られながらも一所懸命働いて、日々の暮らしを丁寧に生きる。啄木の短歌は、まさに清貧とでもいうような生活を彷彿とさせる。
ところが…あなたは知っているだろうか。石川啄木の本性が、とんでもない"クズ"だということを! 今回はそんな石川啄木がいかにクズか…という雑学をご紹介しよう。
【面白い雑学】歌人・石川啄木、実はものすごいクズだった!
【雑学解説】石川啄木のクズすぎる生涯
冒頭で紹介したのは、石川啄木の代表作といわれる三首。一方で、彼はそれらとガラッと印象の変わる作品も残している。
- 「一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと」
- 「どんよりと くもれる空を見てゐしに 人を殺したくなりにけるかな」
…一気に危険思想の匂いがしてきたぞ。
そう、勤勉で真面目なイメージのある啄木は、実は面倒臭がりの怠け者。おまけに浪費癖がすごいという、三拍子そろったクズである。以下より時系列でそのクズっぷりを辿ってみよう。
学校に行くのがめんどくさくて自主退学
石川啄木は16歳のころ、旧制中学を自主退学している。理由は出席日数が足りなかったからだ。
普通なら「この出席日数じゃ卒業できないぞ」と促されれば、「なら最低限は行っておくか」となるはずだが、啄木の場合は「じゃあ卒業しなくていいや」となってしまったわけだ。
そんな彼の学生時代の代表作がこちら。
- 「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」
15歳という大人でも子供でもない少年の、のびのびとした豊かな心を感じる歌だ。しかし草っぱらに寝ころびに行ったのは授業中のことで、同時に以下の歌も詠まれている。
- 「教室の窓より 遁(に)げてただ一人 かの城址(しろあと)に寝に行きしかな」
要するにあの爽やかな一首はサボリの歌である。まあそれも、少年っぽいといったら少年っぽいが。
ただ…彼の素行の悪さは、"それも青春"と済ませられるレベルではない。奨学生の友人に「カンニングに協力しろ」と強要して、それがバレたせいで友人は奨学金の資格をはく奪されるという、けっこうな大事件を起こしているのだ。
挙句、自分は「まあ別に卒業なんかできんでもいいし」と退学してしまう。普通に恨まれるやつじゃん…。
ちなみに啄木は決して劣等性だったわけではない。小学校には1年早い5歳で入っているし、卒業時も首席だ。振り幅がでかすぎる…。やっぱり頭が良すぎると発想がおかしくなってしまう部分があるのだろうか?
生活の苦しい家族を無視して文学を志す
こんな感じで学生としては完全な出来損ないといえる石川啄木だが、その文才は本物だった。中学を退学した翌年には、その才能を認められ、与謝野鉄幹が主宰する文芸誌『明星』にて作品が載せられるように。
18歳のころには、処女作である詩集『あこがれ』も発表。なんだ、クズすぎて苦労したのかと思えば早々に成功しているじゃないか…と思ったらとんでもない。
父親が失業して大変な時期なのに、「文筆業に集中したい」と言って自分だけ上京すると、家族はほったらかし。友人に家族の援助をお願いしていたので「肩身が狭い」と、家族から手紙が届くも、それも無視。
う…うん、まあ、ヒドイんだけど、それだけ文学の道に夢中だったんだな…と、捉えられなくもない。しかしこのあとの結婚生活がまた、いろいろ問題ありなのだ…。
波乱万丈な結婚生活
石川啄木は『あこがれ』を発表した18歳のころ、中学時代の初恋の相手、堀合節子と結婚することになる。初恋の人と結婚だなんてロマンチック! …ではあるのだが、この節子さんは啄木を伴侶に選んだせいで、とんでもない苦労を強いられることになる。
結婚式をすっぽかす
文学で身を立てるため上京していた啄木は、節子との結婚式のために岩手に帰郷することになる。しかしなんと、「今帰ったら家族の面倒を見なきゃならなくなるぞ…」と、結婚式をすっぽかしてしまうのだ!
こうして節子は一人で式に臨むことに。中止にしたほうがマシな事態である。
まだまだ、啄木のクズっぷりはこんなところでは終わらない。彼は結婚式へ向かう道すがら、仙台で途中下車して旅館でダラダラしていたのだが、お金を持っていなかったため、宿代が払えなくなってしまうのだ。
するとどうしたかと思えば、懇意にしていた詩人・土井晩翠に「母が危篤のため、急遽帰らなければならない…お金が必要だ!」と、嘘をついてお金を借りようとする。
結局は嘘がバレて土井の妻に叱られ、お金が借りられなかったため、宿代も踏み倒してしまうのだが…。嘘もつけば金も払わない。うん…筋金入りである。
嫁を養う気もゼロ
結婚してからの啄木は、小学校の臨時教員を務めたあと北海道へ移住し、新聞記者として勤め始める。
文学の才能はたしかにあった啄木だが、歌人の道はそう容易くはない。そのため、できるだけ文章に携われる仕事を…と考えて記者になったようだ。
案の定、啄木の書く文章は読者から高く評価された。しかしこれに調子づいた彼は、遅刻欠勤は当たり前という素晴らしい勤務態度に。「会社まで行く電車賃がない」とか言って休むからね。
当時は単身赴任の状態だったが、妻・節子への仕送りもほぼしていない。貧乏を強いられることになった節子は、自分の持ち物を売ってまで生活苦をしのいだという。
このあと22歳のころには「やっぱり文学がやりたい!」と言って東京へ引っ越すのだが、このときは呼び寄せた節子と母の関係がうまくいかず、節子が出て行ってしまう。
その際、なんと啄木は節子を追いかけもせず、彼女を連れ戻したのは啄木の友人だった。
節子さんがただただ不憫で仕方ない…。というか別れよう。
悔い改めた晩年には作風に変化が…?
そんな啄木も晩年には自身の行いを悔い改め、1910年に発表した歌集『一握の砂』にて作風を一変させるのだ。よく知られているのはこのときの作品で、冒頭で挙げた「はたらけどはたらけど」の句などもそのひとつである。
ここで心機一転させたことが、クズすぎる生涯と勤勉な印象の作品のギャップの秘密なのだ。そこから2年後の1912年、石川啄木は肺結核により、26年間の人生に終止符を打つことになる。
【追加雑学①】石川啄木には、人として大事なものが欠落している…?
啄木の幼少期のエピソードとして、こんな話がある。
あるとき、「まんじゅうが食べたい」と言って、母親にまんじゅうを作らせた啄木。しかしいざ、まんじゅうが出来上がってみると「待っているうちに食べる気が失せた」と言い、母親にまんじゅうを投げつけたというのだ。
そんな彼が晩年に詠んだ一句がこちら。
- 「たはむれに母を背負いて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」
…言行がまったく一致しない。サイコパスじゃん…。ちなみに啄木の妹さんも、この句を「あり得ない」と全力否定している。
また火事を見かけた際は、燃え盛る様子に興奮し手を叩いて踊ったという話も。この人、人として大事なものがそもそも欠落している…。
「私が奢るから」はいつも嘘
啄木には金田一京助という、中学時代からの親友がいた。金田一はアイヌ語研究の権威として知られる言語学者だ。
この金田一と啄木の関係は親友といっても、啄木がいつも利用する側である。ふたりで飲みに行くときも「私が奢るから」と言って誘ってくるくせに、会計時にお金を出したことは一度もなかった。
作家の森田草平もまた「私が奢る」作戦の被害者である。
森田は啄木に「奢るから」と言って誘われたものの、会計時にうまくはぐらかされ、結局森田が奢るはめに。そのあと森田は「明日も仕事なので…」と帰ろうとしたが、「今度こそ奢るから!」と二件目を連れ回され、そのお店のお代も払わされている。
そう、石川啄木の「私が奢る」発言は、ただ酒を飲みたいときの常とう手段だったのだ。
【追加雑学②】返すつもりのない借金は総額1500万円
家族を養わないにしても、働かない啄木はどうやって暮らしていたのか。行きつく先はやはり借金である。
一番多くお金を貸していた歌人・宮崎郁雨の発表によると啄木は生涯で約60人の知人から借金をし、その金額は1372円50銭。現在の価値にして1500万以上にもなっていたという。
…死ぬまで返すことはなかったので、実質借金ではない? ジャイアン風に言うと、"永久に借りておくだけ"である。
奥さんのものを売ってまでお金を工面した親友・金田一京助
借金問題に関しても、いつも世話を焼いていたのは親友の金田一京助だ。
金田一は決して裕福ではなかったが、啄木が金を借りに来ると、奥さんの持ち物を売ってまでお金を用意してやったという。
金田一の息子・晴彦は、啄木が来るたびに家の物がなくなっていくのを見て「石川五右衛門の子孫なのかな」と思っていたなんて笑い話もある。…なかなかセンスのある息子さんだ。
金田一さん、とんでもない聖人なのでは…と、言いたいところだが、この行動が本当に啄木のためになっていたかは謎である。だって借金返さないどころか、啄木は日記で金田一のことをけなしまくっているんだから。
金田一さん…あなたの人の良さはわかるけど、突き放すのもまた愛ですよ…?
ちなみに彼は借金をしに行く歌も作っている。
- 「何故かうかとなさけなくなり 弱い心を何度も叱り 金かりに行く。」
…情けないと思うなら返す努力をしよう。
【追加雑学③】お金の使い道は女遊び
たしかにクズかもしれないけど、石川啄木は文筆業を志し、借金をしながらも必死に執筆に励んでいたんでしょ? …と、ちょっとでも良い部分を見出そうとしたあなたに残念なお知らせだ。
啄木の借金の使い道は遊郭通いである。彼は生活費ではなく、女遊びをするために借金をしていたのだ。
遊郭にはまっていた啄木はこんな短歌も残している。
- 「その膝に枕しつつも 我がこころ 思ひしはみな我のことなり」
女遊びしながらもまったく別のこと考えてるって…? 遊郭行き過ぎて惰性になってるじゃねーか。
仲良くなった芸者からも金をむしり取る
借りたお金で女遊びをしていたかと思えば、啄木は遊び相手の女性にだってお金をせびる。
彼が釧路で単身赴任をしていたころの話、仲良くなった小奴という芸者がいた。小奴さんは人気の芸者さんだったようで、このとき、啄木はほかの客から「これで小奴を譲ってくれ」とお金を渡されている。
渡された手切れ金15円は、現在の価値でいうと30万円。ちなみに丁度、啄木が釧路の単身赴任を終えるころだったため、小奴本人からも5円(現・10万円)の餞別が送られている。
普通、芸者さんって男のほうが貢ぐもんだよね? 小奴さん、どんだけ啄木に惚れてたんだ…?
こうして啄木は小奴さんをその男に売ったわけだが、なんと1年後には「お金貸して」という手紙を彼女に送っている。いや…あのね、啄木さん、あなた一応結婚してるんだけど。
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【追加雑学④】奥さんにバレないように記した「ローマ字日記」
そんなどうしようもないクズ、石川啄木が家族と離れて暮らした期間につけていた日記がある。その日記は奥さんに読まれることがないよう、なんとローマ字でつけられていた。
この時点で嫌な予感しかしないが、いったいどんなことが記されていたかというと…。
ずばり、「浮気日記」である!
趣味が悪すぎる…。
もちろん浮気のことばかりでなく、啄木の不安や不満がふんだんに込められた日記なのだが、とりわけ浮気の描写にはえぐいものがある。
妻子をほっぽり出し、プロの女性と遊びまくっていた啄木は、関係をもった女性の名前や行為の最中のことまで事細かに記しているのだ。やっぱり趣味が悪い…。
さらに「節子に不満があるわけではない。人の欲望が単一ではないだけだ」などと、自身の浮気癖をさも当たり前のことであるかのように正当化する文面も。ついでに金田一京助の悪口もこの日記に書いてたよ。
ローマ字で書かれたこの日記、きっと啄木は「ナイスアイデア!」とほくそ笑んでいたことだろう。
奥さんは彼の死後にこの日記を保存していたのだが(啄木は燃やすように指示を出していた)、中身を読んでいたらと思うと心が痛む。
ちなみに啄木の奥さんは結構なお嬢様かつ才女であることが知られており、この「ローマ字日記」も実は難なく読まれていた可能性が高いとされている。
この「ローマ字日記」は日記文学として高い評価を得られており、現在でも岩波文庫に並んでいる。ぜひ手にとって啄木のゲスさに触れてみよう。
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石川啄木の雑学まとめ
今回は石川啄木のクズエピソードにまつわる雑学を紹介した。
すがすがしいほどのクズっぷりを発揮しながら素晴らしい作品を次々と生んだ啄木。その行動はもはや擁護のしようもないほどだが…それでも妻は離れず、友人にも恵まれているから不思議だ。
どんなに勤勉に見える人にだって、ちょっとぐらいクズな部分はある。できれば隠しておきたい弱い部分をさらけ出して生きた啄木だからこそ、人の琴線に触れる作品を残せたのかもしれない。
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