2016年に発生した「熊本地震」は、熊本県と大分県をはじめとする近隣地域に多大な被害をもたらした。なかでも熊本城は、天守閣・櫓(やぐら)・石垣などが崩落するなどして、壊滅的なダメージを受けた。
熊本県民のシンボルである熊本城の再建を期待する声も大きい。この城を築いたのが、秀吉の子飼いの武将として知られる加藤清正だ。
全国で指折りの名城には、非常時の際にも食糧に困らないためのある工夫が施されていたのをご存知だろうか。今回は、そんな熊本城にまつわる雑学をご紹介していくぞ!
【歴史雑学】熊本城はいざというとき食べられる
【雑学解説】加藤清正は熊本県の生みの親である
加藤清正といえば、朝鮮出兵した際の「虎退治」のエピソードをもつ猛将として知られている。
秀吉の没後は徳川家康の家臣となり、薩摩(さつま)地方を治める島津家のお目付け役として活躍し、熊本城を築いた人物だ。ここで地震前の熊本城の様子を見てみよう。
日本の名城のひとつに数えられる熊本城は、非常時の際にも優れた機能性をもっていた。長期にわたる籠城戦(ろうじょうせん)に耐えられるように、城内の壁や畳に、食糧になる植物の一部を埋め込んでいたからだ。
その植物が「芋がら」と呼ばれるものである。「芋がら」とは、里芋やハス芋などの葉と茎をつなぐ小さな柄のこと。
通常、畳の芯にはワラが使用されるが、芯の部分に干した「芋がら」を埋め込むことで、非常時の際の食糧になったのである。また「芋がら」を城内の壁にも埋め込んだという。
他にも、城の内部には成長が早く、こちらも非常食になる松を植えたり、井戸も大量に造るなど、飢えないように徹底して食べ物のことは考えて作られたのである。
こうした備えは、清正が朝鮮出兵の際、食糧を確保することに苦しめられた経験がもとになっている。過去の苦い経験をもとに、清正は「備えあれば憂いなし」を見事に体現したのだ。
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【追加雑学①】城づくりの名手、加藤清正
肥後藩(現在の熊本県)には、隈本城と千葉城という城があり、清正はこの二城をまとめる形で熊本城を築城した。ただ、熊本の南には薩摩藩があった。その牽制といざという時の拠点として、熊本城は堅牢に造る必要があったのだ。
島津率いる薩摩藩は、秀吉への恭順も晩年になってから。関ヶ原でも西軍に付いて家康に対抗した。
関ヶ原の後には恭順したものの、政権の中心・江戸からは遠いため、いわゆるお目付け役を近くに置く必要があったのだ。そこで選ばれたのが、秀吉の子飼いの臣下であり、かつ豊臣家と対立し、早くから家康側に付いていた加藤清正という名将であった。
そして熊本城築城にあたり、清正が今までに培った城づくりのノウハウを余すところなく全放出したのである。
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【追加雑学①】250年の時を経て証明された熊本城の堅城ぶり
日本有数の堅城として知られる熊本城だが、この熊本城が一度だけ戦場になったことがある。清正の時代から数えて、約250年後に起こった「西南戦争」である。
歴史好きな方はご存知だろう。明治新政府軍と、西郷隆盛率いる薩摩軍との間で繰り広げられた、日本最後の内戦である。
鹿児島で挙兵した西郷隆盛の軍勢は、新政府軍が守る熊本城へ押し寄せた。西郷隆盛らの兵力は約1万3000人に対し、新政府軍は約3500人。
数の上では有利に立っていた薩摩軍だが、救援に駆けつけた新政府軍との間で激戦となり、熊本城を落城させることはできなかった。その際、隆盛はこう語ったといわれる。
「わしは官軍に負けたのではなく、清正公に負けたのだ」と。加藤清正が築城した熊本城の堅城ぶりが、約250年後の世に証明されたのである。
【追加雑学②】熊本県民が馬刺しを食べるルーツは、加藤清正にあり
熊本県の名物といえば馬刺し。その消費量は全国の4割を占めるほどだ。この食文化が広まったのは、加藤清正にルーツがあるという説が有力である。
これも朝鮮出兵した際のエピソードに基づいている。食糧の確保に困った清正が、連れていた軍馬の肉を食べたことで、馬刺しを食べる習慣が熊本に根付いたというものだ。
馬肉は高タンパクで、おまけにカルシウムと鉄分を豊富に含んでおり、風邪に効く食べ物として知られている。江戸時代には、薬膳料理としても食されたという。
つまり清正が馬肉を食したのは、非常に利にかなっていたのである。熊本県の食文化は、加藤清正が作ったといっても過言ではないだろう。
雑学まとめ
熊本城内に隠された食用の植物についての雑学と、清正が広めたとされる馬肉のルーツをご紹介してきた。そのいずれも、清正の朝鮮出兵にルーツがあることが分かった。
渡航した際に直面した食糧難が、脳裏に深く刻まれていたのだろう。「腹が減っては戦ができぬ」というが、まさにそれを地でいく徹底ぶりである。
豪傑で知られる清正だが、全国屈指の名城と謳われる熊本城には、心配性で神経質な彼の性格が反映されていたのだ。
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