後世に名を残した人物には、「苦節の時代」といえる下積みの時期があったことは珍しくない。後に「俳聖」(はいせい)と呼ばれた松尾芭蕉(まつおばしょう)も、そのひとりである。
高名な芭蕉も、若い頃は伊賀や江戸でさまざまな仕事に就いていた。なかには「料理人」の仕事にも就いていたのだ。この記事では、後世に絶大な影響を与えた俳人・松尾芭蕉の知られざる過去についての雑学を紹介していこう。
【歴史雑学】松尾芭蕉はもともと料理人だった?
【雑学解説】旅に魅せられた俳人・松尾芭蕉の生涯
俳人で知られる松尾芭蕉は、晩年、放浪の旅を出るまえに、さまざまな仕事に就いていた。そのひとつが、料理人の仕事である。
松尾芭蕉は、現在の三重県伊賀市に農家の次男として生まれた。13歳のとき、不幸にも父を亡くした芭蕉は、生まれ故郷の伊賀国上野で、侍大将・藤堂良清(とうどうよしきよ)の跡取り息子・主計良忠(かずえよしただ)に料理人として仕えることになった。
良忠は、京都の高名な俳人に師事し、俳句をたしなむ人物だった。良忠と同じく、芭蕉もその高名な俳人に師事したこともあって、良忠は彼にとって貴重な俳句仲間でもあった。現存する芭蕉の最も古い句は、この時期に詠まれたものだ。
23歳のとき、良忠が世を去ったことから、芭蕉は料理人をやめ、江戸へ上京することになる。俳人としてのみならず、芭蕉が若い頃は、料理人の仕事にも就いていたのである。
【追加雑学①】さまざまな職業を経験した松尾芭蕉
芭蕉が料理人をしていたことは先に記した通りである。だが、彼が就いた仕事はこれだけに留まらなかった。晩年、芭蕉が全国を放浪するまで、彼は、いくつかの仕事に就いていたことが分かっている。
そのひとつが、江戸に出た際に、書類を作成や整理をおこなっていた町政の仕事である。芭蕉の知人が江戸の町役人だったこともあり、彼はその伝手(つて)で仕事に就いたといわれる。
この仕事は「読み書き」や「そろばん」の能力が必須だったといわれており、彼が事務能力にも長けていたことがわかる。
2つ目が、江戸の河川管理にかかわる仕事である。芭蕉は、神田上水を維持・管理する作業員の作業分担を決める仕事に就いていた。川底にたまった土砂やゴミを取り除く各町の作業員を、場所や日時を指定して、人員を割り当てる仕事に就いていたのだ。
この他にも、「桃青(とうせい)」と名乗り、添削を行う俳句の先生としても活躍している。37歳のとき、放浪の旅に出るまでに、芭蕉は俳人としてのみならず、町政にかかわる事務員としても活躍していたのだ。
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【追加雑学②】松尾芭蕉は服部半蔵だったとのトンデモ説がある
松尾芭蕉には、ある噂がつきまとっている。それは、伊賀衆や甲賀衆といった忍者を率いた服部半蔵ではないのかというトンデモ説である。そう呼ばれるのには、いくつかの理由がある。
江戸時代、全国各所には関所が置かれていた。当然、監視の眼が厳しい関所を通らなければ、自由に移動などできるはずがない。では、なぜ芭蕉は関所をくぐって旅ができたのか。
芭蕉は、一時、町政などの事務員として働いていたものの、全国を旅する際には、身元を明らかにできるほどの仕事には就いていなかったはずである。そのこともあって、ある噂がささやかれている。
それが、「服部半蔵説」である。服部半蔵は、本能寺の変の際、徳川家康の窮地を救った人物として有名だ。
本能寺の変の際、家康が堺から伊賀を経由して無事に自国に戻ることができたのは、伊賀・甲賀の忍者衆を率いていた服部半蔵の先導なくしては実現しなかった。史実では「伊賀越え」と呼ばれている。
その半蔵と芭蕉は、奇しくも同じ伊賀国の人間である。これは偶然だろうか。また、「奥の細道」の旅に出た際、彼が旅をした距離は約2,400㎞、1日に歩く距離は約45㎞にのぼったという。芭蕉、45歳のときである。
忍者でもない限り、この距離を1日で移動するのは無理ではないか。その謎もさらに噂に拍車をかけた。40代にして驚異的な距離を移動することができ、監視の目が行き届いた関所を通過できる。そのことが、彼は忍者で「服部半蔵」だったのではいないか、との説が生まれたのである。
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雑学まとめ
以上、松尾芭蕉の来歴についての雑学をご紹介してきた。1694年、松尾芭蕉は大阪に行く途中に体調を崩し、約1ヵ月後、この世を去った。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」は、芭蕉が最後に詠んだ句である。
俳人として後世に名を残した松尾芭蕉。旅に病み、旅に憑かれた俳人は、今や世界的にも知られる人物となった。彼が最後に詠んだ句のように、その名は今や世界中を駆けめぐっている。