日本の男子サッカーチームがオリンピックでメダルを獲得したのは、1968年のメキシコオリンピックまでさかのぼる。この大会において日本代表チームは、得点王に輝いた釜本を筆頭に、サッカー強豪国に臆せず立ち向かい、銅メダルを獲得する快挙を成し遂げた。
銅メダルを獲得したことのみが注目される日本代表チームだが、じつは日本代表チームは「フェアプレー賞」も獲得していたことをご存じだろうか。
この雑学記事では、メキシコオリンピックでサッカー日本代表チームが「フェアプレー賞」に輝いた経緯をご紹介する。
【オリンピック雑学】五輪メキシコ大会で、日本サッカーはフェアプレー賞も受賞している
【雑学解説】フェアプレー精神!日本サッカーの父「デットマール・クラマー」
サッカー日本代表チームがオリンピックで唯一メダルを獲得したのが、1968年のメキシコオリンピックである。日本代表は、3位決定戦で開催国メキシコを破り、銅メダルに輝いた。
サッカー競技におけるアジア勢初の快挙でもあった。当時の映像をご覧いただこう。
この大会で、日本代表チームは「フェアプレー賞」にも輝いていることをご存じだろうか。フェアプレー賞は、国際フェアプレー委員会がユネスコの協力を得て創設した賞で、各国のフェアプレー委員会・オリンピック委員会・ジャーナリストなどの推薦によって、贈られる賞である。
正式名称は「ユネスコ国際フェアプレー賞」という。受賞した人物や団体には、近代オリンピックの創設者・クーベルタンの名を冠した「ピエール・ド・クーベルタン・フェアプレー・トロフィー」が贈られる。
日本代表はこの大会で受賞した。受賞理由は、日本選手がルールを順守し、ラフプレーがなかったこと、競技外での日本選手のマナーの良さなどが挙げられた。
この大会に限らず、日本のサッカー代表チームは、現在に至るまで多くの大会で「フェアプレー賞」を受賞している。この精神を日本に植え付けたとされるのが、ドイツ人のデットマール・クラマーだ。話は、1960年のローマオリンピックの予選大会までさかのぼる。
日本は1960年のローマオリンピックで予選敗退に終わり、本大会の出場を逃す。4年後にひかえた自国開催の東京オリンピックに向けて、日本代表チームの監督に、ドイツからデットマール・クラマーが招集される。
彼は選手たちの技術を向上させる、また彼らと寝食をともにすることで、選手たちとの信頼関係の構築に取り組んだ。彼はサッカーを通して、社会性や人としての礼儀を説く教育にも力を入れた。
「グラウンドはサッカーだけをやる所ではない。人間としての修練の場である」「サッカーは心の教育の場である」の信念のもとに、選手たちを指導してまわった。
こうした強化策が実り、東京オリンピックでは、日本はベスト8進出という快挙を成し遂げた。そして、彼の教えを受けた釜本や杉山などの選手たちが、4年後のメキシコオリンピックで躍動し、世界の強豪国を退けて銅メダルを獲得するに至った。
こうしたクラマーの指導が、メキシコオリンピックでの日本代表チームの銅メダル獲得や、「フェアプレー賞」の受賞につながったのである。クラマーは後に、「人生最高の瞬間は、日本がメキシコシティー大会で銅メダルを獲得したとき」と語ったとされる。
現在でもサッカー日本代表チームはワールドカップや世界大会でフェアプレー賞を受賞することがあるが、このプレー精神はかつて日本代表を指揮したドイツ人、デットマール・クラマーの教えが見事に根付いている証なのかもしれない。
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【追加雑学①】歴代最強ストライカー!メキシコオリンピックで得点王に輝いた釜本邦茂
1968年のメキシコオリンピックで大会得点王に輝いたのが、サッカー日本代表史上、最高のストライカーといわれる、釜本邦茂(かまもとくにしげ)である。
自国開催となった1964年の東京オリンピックと、4年後のメキシコオリンピックで、彼は日本代表のエースストライカーとして活躍した。とくにメキシコオリンピックでは、6試合に出場し、7得点を挙げて大会得点王に輝いている。
上の動画は、釜本がメキシコオリンピックを回想したものである。彼は日本の銅メダル獲得を語るうえではかかせない選手だった。右足・左足・ヘディングと、いずれの箇所でも高い得点力を誇る万能型フォワードで、その技術は世界トップレベルを誇った。
その技術は当時の日本代表コーチのデットマール・クラマーが世界最高クラスの選手と太鼓判を押すほどだった。そのため、メキシコオリンピックでは、彼の得点力を活かすための戦術が敷かれることになった。
また日本サッカーリーグでは251試合に出場し、通算202得点・通算79アシストと、ともに歴代1位を記録している。彼がサッカー日本代表史上、最強のストライカーといわれる由縁である。
日本サッカーの長年の課題として、得点力不足が嘆かれてひさしい。もし彼のような世界的ストライカーが出現すれば、日本もワールドカップで好成績を挙げられるかもしれない。
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【追加雑学②】サッカー日本代表が青いユニフォームを着たのは、ベルリンオリンピックが最初
サッカー日本代表は、現在、青色のユニフォームを着用している。「SAMURAI BLUE(サムライブルー)」という日本代表の愛称を、皆さんも一度は聞いたことがあるだろう。
この青色のユニフォームをサッカー日本代表チームが初めて着たのが、1936年のベルリンオリンピックだったことをご存じだろうか。当時のユニフォームは、現在のような濃い藍色ではなく、淡いくすんだ色のサックスブルーだったという。
そもそも、なぜ日本代表が青色のユニフォームを着用するようになったか、その真偽は不明だとされている。一般には「日本の国土を象徴する海と空の色」とされるが、日本サッカー協会によると、文献や資料が現存しないことから、その真相はよく分からないそうである。
有力な説には、1930年に開催された極東選手権で、東京帝国大学(現東京大学)の学生が着用したユニフォームがライトブルーだったことが、サッカー日本代表のユニフォームのルーツになったとの指摘もあるようだ。
その後は、白や赤を基調としたユニフォームに変更された時代もあったが、1992年以降は、現在の青を基調としたユニフォームで統一された。
今ではサッカー日本代表の代名詞として定着した青色のユニフォームだが、その歴史をさかのぼると、1936年のベルリンオリンピックで初めて採用された色だったのである。
雑学まとめ
メキシコオリンピックで、日本代表チームが獲得したフェアプレー賞をはじめ、銅メダル獲得に貢献した選手と、日本代表のユニフォームの雑学についてご紹介してきた。
日本代表チームがサッカーワールドカップや世界大会などで、フェアプレー賞を獲得しているのは、デットマール・クラマーの教えが日本サッカーに根づいている証なのかもしれない。
彼はその意味で、日本サッカーの礎を築いたにふさわしい人物だ。これからもその精神を受け継ぎ、日本サッカーの美徳とされる「フェアプレー精神」で、堂々と世界の強豪国に挑んでほしいものである。頑張れ、日本!